アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

戦争罪悪感プログラム

ウィキペディアの「連合軍占領下の日本」の関連項目から、この時代にGHQによる「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」と言うのがあったのを初めて知りました。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム

この場合の「ギルド」とは「罪悪感」という意味で、これはつまり「日本人に戦争についての罪悪感を植え付けるプログラム」です。

主な内容としては、アメリカを中心とした連合国と日本との大戦を、日本国内の「軍国主義者」と「国民」との対立に置き換えようとするものです。

「悪い軍国主義者が勝手な戦争を起こして、そのために国民が苦しめられた」という図式を定着させれば、東京大空襲や広島長崎への原爆投下もアメリカが悪いのではなく「日本の軍国主義者が悪い」に置き換えることが出来て、しかも日本の再軍備化も封じることが出来るのです。

確かに「悪い軍国主義者が勝手な戦争を起こして、そのために国民が苦しめられた」という図式は私も子供の頃そう習ったし、皆もそう言ってるし、特に疑問も持ちませんでした。

しかしちょっと勉強すると、おかしいな?と思えることはいくつか出てくるのです。

一つは日露戦争の直後に起きた「日比谷焼打事件」です。

当時の日本はロシアと戦争して勝ったにも関わらず賠償金が得られず、それに怒った国民が暴動を起こし、官邸や新聞社や警察署などに火を付けて破壊しまくったのです。

これで見ると、当時の日本国民としては賠償金が得られるならと戦争に賛成していた、と見ることが出来るのです。

これに関連して考えると、古代ギリシアの哲学者プラトンが書いた『国家』という書物に、「国家の性格は、その国民の性格を反映している」と書かれていて、私はこれに妙に納得したのです。

さらにスペインのオルテガという哲学者が書いた『大衆の反逆』に、「支配というのは民衆の同意が得られなければ成り立たない」と書いてあって、これもなるほどと思えてしまうのです。

以上のように考えると、大戦前の日本において「軍国主義者」と「国民」が対立していたとはどうも考えにくい。

むしろ戦争に勝って、今度こそ賠償金を得たいと思っていたのは「日本国民」であって、その民意が得られたからこそ国家として戦争が出来たのではないか、というように思えるのです。

「国民が戦争を望んでいた」なんて現在の感覚ではナンセンスのように思えますが、それこそが実はプログラムによる「洗脳」の結果なのか?それともプログラム自体が荒唐無稽な陰謀論なのか?判断は人それぞれと言えるかもしれないですね…

JA.M.WIKIPEDIA.ORG
 
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(英語:War Guilt Information Program、略称:WGIP)とは、文芸評論家の江藤淳がその存在を主張した、太平洋戦争(大東亜戦争終結後、連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAP、....

子供はなぜ勉強しなければならないのか・3

子供はなぜ勉強しなければならないのか?と言う問いの一方には「勉強が嫌い」と言う思いがあるのですが、ぼくも子どもの頃は勉強が好きな方ではなかったのです。ところが子供の頃、そうやってイヤイヤながら勉強した事が大人になってからかなり役立っている事が分かりそれで勉強が好きになったのです。

 

きっかけの一つは少年ジャンプで連載していたマンガ『ジョジョの奇妙な冒険 Part2』を読んだ事ですが、この物語の主人公「ジョセフ・ジョースター」は少年マンガの主人公らしからぬふざけたキャラクターで、ハンサムで頭が良く「波紋」と言う一種の特殊能力が生まれながらに使える才能の持ち主で、にも関わらず、ジョセフは自分の才能をハナに掛けて「一切の努力はしたくない」と公言するようなキャラクターなのです。

ところが強大な敵が現れてそれを倒さなければならないことになり、そのために「波紋使い」の怖い先生に捕らえられて、厳しい修行を無理矢理にさせられてしまうのです。

そのように厳しい修行をイヤイヤながら行なっているうちに、ジョセフは知らない間に「波紋使い」としての実力を上げ、ついに強大な敵に打ち勝つ事ができたのです。

これを読んで思ったのですが、と言うより、このマンガを読んでしばらくして段々と気づいたのですが、勉強でもアルバイトでも、自分がイヤイヤながらやってきた事は、案外人生の役に立つと言う事なのです。

自分がイヤイヤやってきた事でも、振り返ってみるとその事は無駄ではなく、自分にとっての「実力」としてきちんと身に付いている。この事がわかると勉強はもちろん、努力する事そのものが、嫌いではなくなるのです。

 

今考えると不思議ですが、子供の頃のぼくは「努力しても実力はそれほどアップしないだろう」という漠然とした思いに囚われていて、それで勉強がそれほど好きになれなかった理由の一つになっていました。なぜなのか?と言えば当時のぼくは「才能論」に囚われていたのです。

 

人間の実力は才能か?努力か?はどちらか一方だけとは言えませんが、今のぼくは圧倒的に「努力」の割合の方が多いと考えています。しかしそれ以前のぼくは才能を重視して努力をないがしろにする「才能論」に囚われていたのでした。

 

なぜかと言えば、小学生の頃のぼくは勉強があまり得意ではなく、運動やスポーツはもっと苦手でしたが、しかし絵を描くことだけは得意で、いつもクラスで一番だったのです。そしてなぜ自分が絵が上手かったのかは、特に努力したわけではなく、まさに持って生まれた「才能」のように思えたのです。

 

それとぼくは絵画教室には通ってませんでしたが、小学生の頃は書道教室に通っていました。書道は練習すればそれだけ上手くなりますが、しかし皆同じように努力しても、その結果は人によって差があって、ぼくは書道教室でも字が一番上手かったのでした。

 

つまり小学生の頃のぼくは、絵や書道が上手いのは自分の才能のせいだと思うと同時に、勉強やスポーツが苦手なのも才能のせいだと思って、自分の苦手分野を克服する努力をしなかったのです。才能があるとは努力しなくても能力が発揮できる事で、才能が無ければいくら努力しても無駄だと思っていたのです。

子供はなぜ勉強しなければならないのか・2

なぜ勉強しなければならないのか?「なぜ○○なのか?」「○○とは何か?」と言う問いの答えを見つけるには「歴史」を遡って考えるのが一つの方法です。それで個人の歴史を遡ると、どれだけ勉強が苦手な子供でも、日本語が喋れる限り「日本語を習得した」というものすごい勉強を既に成し遂げている。

 

何も知らない赤ん坊の状態から、日本語を丸ごと学んで喋れるようになると言うことは大変な勉強で、それを成し遂げたことは誰もが誇りに思って良いことだと思います。しかしそんなに大変な日本語習得の勉強をして、それ以上子供はなぜ勉強しなければならないのでしょうか?

一つには「理由なんか考えないで勉強する」という態度で、これは実に有効です。そもそも人間の赤ん坊は、勉強する理由なんか考えずにともかく「言葉」を覚えようとするのです。なぜ赤ん坊は言葉を覚えなければならないのか?その問いは、人間が言葉を覚えなければ発することができないものです。

人間は「言葉」という道具を使ってはじめて「考える」ということができるようになります。そのために赤ん坊は必死になって言葉を覚えようとします。しかし言葉を知らない赤ん坊は「考える」ということができませんから、理由もなくともかく言葉を覚えようとします。

この考えは言葉以外の、それ以降の勉強方法にも当てはまります。言葉を覚えたての子供は、知識が不足して考える力も不足してますから、大人から「勉強しなさい」と言われて「なぜ?」という疑問を持ったとしても、そう簡単に答えを得ることはできません。その答えは勉強をしなければ得られないのです。

 

ですから子供が「理由もわからないまま勉強する」と言うのは実に大切なことなのです。さらに加えれば「内容を理解しないまま勉強する」と言うことも、勉強法の全てではないですが大切な勉強法の一つです。なぜなら赤ん坊は「言葉のは何か?」「日本語とは何か?」を理解しないまま言葉を覚えるからです.

 

小学生になると国語の授業で「名詞」「動詞」「形容詞」の違いを教わったり、動詞の「か行五段活用」などを教わったりしますが、逆に言えば皆さんはそう言ったことを理解しないまま、赤ん坊から幼児の頃にかけて日本語を勉強して喋れるようになっているのです。

 

ちょっと難しい話になりますが、「言葉とは何かを理解する」ことと「言葉が使えるようになる」ことは、ちょっと違います。いや、言葉を理解したからこそ言葉が喋れるようになるのですが、言葉とは一方では思考のための道具です。

 

ですから一旦言葉を喋れるようになってから、つまりその意味で言葉を「理解」した後で、からあらためて「言葉のは何か?」について考えて理解する、そうした「二重の理解」の仕方をするのです。

 

ともかく「内容を理解しないまま勉強する」ことの大切さは、実は僕は谷崎潤一郎という小説家が書いた『文章読本』という本で知ったのです。谷崎潤一郎によると昔の子供は、今のような子供向けの教科書ではなく、授業という中国から伝わった学問の、難しい漢文を「素読」していたのだそうです。

 

素読とは「内容を理解しないままただ読んで暗記する」という意味です。そんな勉強をして何の意味があるの?と思うかもしれませんが、谷崎潤一郎によると、そうやって子供の頃に覚えた漢文の一節が、後になってふと理解できることがたびたびあって、自分の人生に大変に役立つのだそうです。

 

そう言えば雑誌『子供の科学』は自分が連載していることもあって毎月読んでますが、例えば今月は「ホーキング博士宇宙論」特集ですが、文章にルビは振ってあるものの内容は子供向けに噛み砕かれてはおらず、かなり専門的で難しいものでした。

 

こんなの子供に理解できるのか?(そもそもぼく自身も理解できない)と思うのですが、谷崎潤一郎が示した勉強法によると、これはこれで正しいのです。難しいことは難しいままに理解しないまま読んで、「分かる」というのはそのずっと後でも構わないのです。

 

ぼくは以前、難しい哲学の内容を優しく噛み砕いた入門書を何冊か読んでみたのですが、難しい内容を無理にわかりやすく噛み砕いて説明すると、結局は元の哲学の内容とは違ったものになってしまうのです。

 

ですから哲学にしろ科学にしろ、難しいことは難しいままに、理解しないままただ読んで暗記する、というのは実に大切な勉強法なのです。しかしぼくは、谷崎潤一郎の『文章読本』を読むまではこの勉強法について知らなかったのです。

 

だからぼくは子供の頃「なぜ勉強しなければならないのか?」という問いに引っかかって、あまり勉強する気になれないままでいたのです。それで大人になってあらためて「科学」や「哲学」に興味を持って色々と本を読むようになるのですが、自分が「分かる」ことを優先し噛み砕いて書かれた入門書ばかり読んでいたのです。

ところが谷崎潤一郎の『文章読本』を読んで「なるほど」」と思ってからは、難しい哲学書の原著を読むようになり、中国の儒教の経典『大学』『中庸』『論語』なども読むようになったのです。

 

儒教は紀元前何百年の昔から中国に伝わる教えで、その経典は印刷技術が無い以前から、様々な人によって木の板や紙に書き写されながら、代々伝えられてきました。その内容は宗教、道徳、哲学、政治学などを含む総合的な学問で、現代の我々にも役立つ普遍性を持っています。

 

ぼくはそのような儒教の経典を大人になってから読んで、その内容を徐々に理解するようになりましたが、江戸時代の日本の寺子屋では子供の頃からそれを読んでいたのです。つまり、もう一つ言えば、何を勉強するか?の内容は実に「何でもいい」のです。

 

谷崎潤一郎の『文章読本』は、小説家である谷崎潤一郎が、一般の人に文章の書き方を教える内容の本ですが、最後に示されるのは「文章には決まった書き方はなく、どうだっていい」と言うことなのです。

小説やエッセイには人によって作品によって様々なスタイルがあり、自分が読者に伝えたいことが書ければ、スタイルの違いなんてどうでもいい、と言うことなのです。この教えを広げて考えれば、「勉強する内容は何でもいい」と言うことになります。

例えばぼくの友達の一人は幼稚園の頃にもう文字を覚えてしまって、家にあったドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と言う難しい長編小説を、意味もわからないまま全部読んでしまったと言うのです。その「勉強」が何の役に立ったのか?本人に聞くと「分からない」と言いますが、彼は地元で一番の高校を出て、今は地元で学習塾を経営して、たくさんの子供たちを進学校や有名大学に送り出しています。あるいはフランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースは「どのようなデタラメな分類も、何も分類しないよりも上等である」と書いています。

 

何かを分類することは、つまりは何かを調べて勉強するということです。そしてその勉強の内容がたとえ間違っていたとしても、何も勉強しないよりは意味があるのです。なぜなら勉強の内容が間違っていた場合、それが分かった時点で「修正」すれば良いのです。

 

ところが何も勉強していなければ、何の修正もしようがないのです。これは幼児が言葉を学んで行く過程を考えればわかります。幼児が何か間違った言葉を覚えてしまった場合、その「間違った言葉」を取っ掛かりにして、正しい言葉を覚えることができます。

 

これに対し言葉を知らない動物は、言葉を覚えるための「取っ掛かり」すら覚えられないため、決して言葉を知ることはできません。そもそも人間の長い歴史を振り返れば、人間たちは様々に「間違った知識」を採用しては過ちを繰り返してきたのです。

 

しかし、そのように様々な「間違った知識」を取っ掛かりにして、「正しい知識」を積み重ねてきたのも人類の歴史です。もしそのような「間違った知識」がなければ、つまり間違っていようが何の知識もないのであれば、そもそも知識の発展のしようがないのです。

 

しかし何でもそうですが、「答えは一つ」ではありません。ですから今述べた勉強法も、ただ一つの正しい答えではありません。そもそも「なぜ勉強しなければならないのか?」について考え始めたはずなのに、「理解を考えるに勉強することが大切です」では答えになってませんね…

宇宙観と理論

議論が成り立つ条件とは何か?

いくつかあるでしょうが、今ちょっと読んでるウィリアム・ジェイムズプラグマティズム』冒頭に記された考えを借りれば「宇宙観の一致」がひとつ大きいとではないかと思います。

人間は人それぞれに「宇宙観」を持っていて、それがある程度一致しなければ、お互いに議論は成り立たないだろう、という事です。

人間の宇宙観とは、生物用語としての「環世界」に置き換えることができると思います。

生物は同じ「環境」に棲息していても、視覚や聴覚などのセンサー、またはその情報処理が生物種によって異なり、そのように種ごとに異なる「環世界」の中を生きるのです。

しかし、人間の場合はいわゆる本能が壊れたとされていて、動物種としての人間に固有の「環世界」はあるとは言えますが、それよりも各自が経験や学習を積み重ねて形成した「環世界」の方がより広大で、それを言い換えると「宇宙観」という事になり、各自共通性を持ちながらも「人それぞれ」という側面も大きいのです。

さて、動物に話を戻すと「環世界」が同一の個体同士、すなわち同種の個体同士では「儀礼的な争い」が成立します。

例えばオオカミ同士が争う場合、どちらがより強いかが判明したならば、その時点で争いをやめて殺し合いをすることはありません。

それはオオカミ同士では「負けのサイン」が決まっていて、そのサインを出した相手をそれ以上攻撃しないと言うように「本能」で決まっていて、そのような「環世界=宇宙観」を双方が共有しているからです。

しかし別種の動物同士が争った場合、「負けのサイン」が相手に通じず、死ぬまで攻撃を加えられる、と言う事態になってしまいます。(この具体例がローレンツ博士の「ソロモンの指輪」に出てきますが内容は度忘れしました)。

それで「議論」の話に戻りますと、お互いに「宇宙観」が一致していない者同士だと、結果としては殺し合いになります。

もちろん本当に殺すと言うことではなく、「人格否定」になってしまうと言うことです。

私としては、相手の人格否定というのは基本的にやりたくありませんから、もしそのような争いになりそうな場合は「いろいろな意見があっていいですね(^^)」で締めるのが良いのではないかと思うのです。

そもそも、各自バラバラな宇宙観を無理に統一しようとすること自体が問題で、それ自体が「殺し合い」の元になる訳です。

だったら各自それぞれの「宇宙観」を知ること自体、意味のあることではないかと思うのです。

 

子供はなぜ勉強しなければならないのか・1

子供はなぜ勉強しなければならないのか?その理由はいくつか考えられますが、まず一つは「なぜ勉強しなければならないのか?」などと言う余計な疑問を持たないことです。

親や先生から「勉強しなさい」と言われ、「子供は勉強するもんだ」などと言われ、そのことに「なぜ?」と言う疑問を持たずに素直に勉強すれば、それだけ勉強がはかどって成績が良くなるでしょう。

しかし、そのように何の疑問も持たずに素直に勉強する態度は、果たして本当に「頭が良い」と言えるでしょうか?いや逆に考えれば、「なぜ勉強しなければならないのか?」と言う疑問につまずいて、勉強ができずに成績が下がってしまった人を「頭が悪い」と言えるのか?と言うことです。

何にしても疑問を持って考えようとすることは大事です。しかしせっかく良い疑問を持ったのに、適切な答えが得られないまま考えがストップし、学校の勉強ができなくなって成績が落ちてしまっては「本末転倒」と言うことになってしまいます。

実は僕も子どもの頃は「なぜ勉強しなければならないのか?」と言う疑問に漠然と囚われ続けていて、学校の成績はあまり良い方ではなかった。しかし大人になったら急に勉強することが面白くなって、その必要性もだんだんと理解できるようになったのです。

 

実はどんなに勉強嫌いな子供でも、その子が普通に日本語を喋っているのであれば、実はもう大変な「勉強」をすでにしているのです。人間は誰でも、何の知識もなく、言葉もしゃべれない「赤ん坊」として産まれてきます。

そして赤ん坊は成長するに従い、親をはじめとする周囲の大人がしゃべっている言葉を学びます。皆さんはどうやって自分が日本語が喋れるようになったのか、どうやって勉強してきたのか覚えていますか?不思議なことに、誰もがそんな自覚もないまま、いつのまにか日本語が喋れるようになっているのです。

人間の子供は一般的に四歳くらいで大人と同じように言葉が喋れるようになると言われてますが、大人に「勉強しなさい」と言われるまでもなく、人間の子供は実に一生懸命に、主体的に言葉の勉強をするのです。

ナチスと中二病

ナチスホロコーストについて改めて調べようと思ったら、関連項目の「T4作戦」について読み耽ってしまったのですが、ふと気付いたのは、これは「中二病」ではないかと言うことです。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/T4作戦

「T4作戦」とは、優れた民族を維持するために「標準より劣った人間」を間引きして安楽死させる作戦ですが、こうした概念的な理想主義的による潔癖症とはつまるところ「中二病」と言えるのではないか?

中二病」とはネットスラングで、子供がだいたい中学二年生くらいになると、大人の知恵を付けてネット掲示板に書き込むようになり
、その大人ぶっている反面子供じみた内容の書き込みを揶揄して「中二病」なる言葉が使われるようになったのです。

ナチスの「T4作戦」はダーウィニズムから発生した「優生学」を背景にしてますが、そう言う覚えたての科学知識からよく考えないままに極論を引き出して「こうだ!」と結論を出して悦に浸るのは、中学生にありがちな態度だと言えます。

そう考えると、ナチスはもちろんのこと、「唯物論」や「唯物史観」と言った“科学理論”を背景とした共産主義もまた「中二病」と言えるのではないか?

実際、北朝鮮や中国、または日本の共産主義の方々の振る舞いを「中二病」と考えるとしっくりくるものがあるのです。

この点、自由主義とか資本主義と言うのは、観念的な綺麗事に走らない限り「オトナ的」だと言えるかも知れません。

ちなみに、ムッソリーニナチスの人種論にかなり批判的で、こんなことを言ってるんですね…

「人種」ですか!そんな概念は9割方は感性の産物ですよ。近代科学の生物学で人種などという概念が認められるなどと考える人間がどれだけいるでしょう。…大体からして、彼ら(ナチス)が後生大事にしている人種理論家のほとんどはドイツ人ではないのですよ。ゴビノーとラプージュはフランス人、チェンバレンはイギリス人、ウォルトマンに至っては貴方と同じユダヤ人だ。
— Benito Mussolini, 1933.[288]

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ベニート・ムッソリーニ


 
JA.M.WIKIPEDIA.ORG
 
T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、ナチス・ドイツ優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の....

大衆と淘汰

オルテガによると大衆とは自ら能力を高めるための努力をしない人を指す。なぜそのような人が大量に存在するのか?原始時代の人間は実はエリート集団で無能者は淘汰される。ところが文明時代になって淘汰されるべき無能者でも生き延びられるようにシステムが完備されるようになった。

オルテガによると、現代の大衆の平均的知的水準はそれ以前の時代に比べて格段に向上している。しかし起業して人を雇えるような「突出して優れた人間」の割合はごく少ない。つまり「ごく少数の優れた人間と、大多数の無能者」という比率は、原始時代から現代に至るまで変わりがない。

私は未熟児として生まれたので、現代文明のシステムがなければ生き延びることが出来なかった、と言う負い目がどこかにあったのだが、しかし同じことは私以外の大多数の人びとにも言えるのだ。

現代においてこれだけ人間が増えているのは、原始時代だったら淘汰されるべき弱い人間を生き延びさせるシステムが完備されているからである。