アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

子供はなぜ勉強しなければならないのか・3

子供はなぜ勉強しなければならないのか?と言う問いの一方には「勉強が嫌い」と言う思いがあるのですが、ぼくも子どもの頃は勉強が好きな方ではなかったのです。ところが子供の頃、そうやってイヤイヤながら勉強した事が大人になってからかなり役立っている事が分かりそれで勉強が好きになったのです。

 

きっかけの一つは少年ジャンプで連載していたマンガ『ジョジョの奇妙な冒険 Part2』を読んだ事ですが、この物語の主人公「ジョセフ・ジョースター」は少年マンガの主人公らしからぬふざけたキャラクターで、ハンサムで頭が良く「波紋」と言う一種の特殊能力が生まれながらに使える才能の持ち主で、にも関わらず、ジョセフは自分の才能をハナに掛けて「一切の努力はしたくない」と公言するようなキャラクターなのです。

ところが強大な敵が現れてそれを倒さなければならないことになり、そのために「波紋使い」の怖い先生に捕らえられて、厳しい修行を無理矢理にさせられてしまうのです。

そのように厳しい修行をイヤイヤながら行なっているうちに、ジョセフは知らない間に「波紋使い」としての実力を上げ、ついに強大な敵に打ち勝つ事ができたのです。

これを読んで思ったのですが、と言うより、このマンガを読んでしばらくして段々と気づいたのですが、勉強でもアルバイトでも、自分がイヤイヤながらやってきた事は、案外人生の役に立つと言う事なのです。

自分がイヤイヤやってきた事でも、振り返ってみるとその事は無駄ではなく、自分にとっての「実力」としてきちんと身に付いている。この事がわかると勉強はもちろん、努力する事そのものが、嫌いではなくなるのです。

 

今考えると不思議ですが、子供の頃のぼくは「努力しても実力はそれほどアップしないだろう」という漠然とした思いに囚われていて、それで勉強がそれほど好きになれなかった理由の一つになっていました。なぜなのか?と言えば当時のぼくは「才能論」に囚われていたのです。

 

人間の実力は才能か?努力か?はどちらか一方だけとは言えませんが、今のぼくは圧倒的に「努力」の割合の方が多いと考えています。しかしそれ以前のぼくは才能を重視して努力をないがしろにする「才能論」に囚われていたのでした。

 

なぜかと言えば、小学生の頃のぼくは勉強があまり得意ではなく、運動やスポーツはもっと苦手でしたが、しかし絵を描くことだけは得意で、いつもクラスで一番だったのです。そしてなぜ自分が絵が上手かったのかは、特に努力したわけではなく、まさに持って生まれた「才能」のように思えたのです。

 

それとぼくは絵画教室には通ってませんでしたが、小学生の頃は書道教室に通っていました。書道は練習すればそれだけ上手くなりますが、しかし皆同じように努力しても、その結果は人によって差があって、ぼくは書道教室でも字が一番上手かったのでした。

 

つまり小学生の頃のぼくは、絵や書道が上手いのは自分の才能のせいだと思うと同時に、勉強やスポーツが苦手なのも才能のせいだと思って、自分の苦手分野を克服する努力をしなかったのです。才能があるとは努力しなくても能力が発揮できる事で、才能が無ければいくら努力しても無駄だと思っていたのです。