アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

江戸時代に縄文文化はなかった

昨日は上野の東京国立博物館で『縄文展』を観ましたが、縄文文化とはなにか?ということをウィキペディアで確認すると、なんと江戸時代には文化はなかった!

どういうことかと言えば、日本の縄文文化は明治になって来日したアメリカの博物学エドワード・モースによって発見され、つまりそれまでの日本人は、過去にそんな縄文文化なんてものがあったなんて全く知らなかったし、興味もなかったのです。

人間というものは自分のことは忘れっぽく、だから他者に指摘されることで、忘れた過去を思い出すことが出来るのであり、日本人にとっての縄文文化とは、そういうものであったのです。

ところが戦前の日本は皇国史観が重要視されたため、縄文文化の研究はあまり進まず、本格的に研究され、教科書にも採用されて一般に認知されるようになったのは戦後になってからなのです。

そう考えると、縄文文化というのは意外に歴史が浅くて「新しい」と言えるのです。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/縄文時代

仏教とメディアリテラシー

仏教、と言ってもいろいろあるのですが、私が最近読み返してるのが『ブッダのことば』で、これは現存する最古の仏典で、キリストが生まれる300年も前に書かれたものです。

仏典とは何か?と言えば、仏教の開祖であるゴーダマ・ブッダは自分で本は書かないで、その教えの言葉が弟子たちの口によって伝えられ、そしてある時から文字に書き留められるようになったのです。

そのように書き留められた「ブッダのことば」は、時代を経るごとにさまざまな解釈が書き加えられ、さらにオリジナルから離れた独自の思想として発展して行きます。

日本には、6世紀半ばに中国経由で漢訳された仏教がもたらされますが、それはオリジナルから離れた「大乗仏教」であったのです。

そして近代になってようやく、パーリ語で書かれた『ブッダのことば(スッタ・ニパータ)』が日本にももたらされて、前後に中村元さんによって日本訳が岩波文庫で出版され、誰でも読めるようになったのです。

その『ブッダのことば』を今日ちょっと読んでいたら、まったくもって現在のネット時代のメディアリテラシーに当てはまる言葉があったので、ご紹介しようと思った次第です。

今から約2300年前に書かれた言葉が、まったく違和感なく現代に通じると言うのは不思議なことですが、それだけ人間は変わっていないと言うことなのかもしれません。

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ブッダのことば』(中村元訳)より
第四 八つの詩句の章
五、最上についての八つの詩句

世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

かれ(=世間の思想家)は、見たこと·学んだこと·戒律や道徳·思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真理に達した人々>は語る。それ故に修行者は、見たこと,学んだこと·思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、 人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

かれは、すでに得た(見解)(先入見〕を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異った見解に)分れているが、かれは実に党派に従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

麻原彰晃を評価した吉本隆明

吉本隆明は、戦後日本を代表する思想家などと言われてますが、私はこれまで一冊も読んでこなかったのでした。

ところが「吉本隆明麻原彰晃を擁護していた」ことを小耳に挟み、改めて興味を持ってネット検索してみたのでした。

するとウィキペディアがヒットして、その中に「オウム真理教評価について」と言う項目がありました。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吉本隆明

これによると吉本隆明は、地下鉄サリン事件の“後”に「宗教家としての麻原彰晃は評価する」と産経新聞上でのインタビューで答えていたそうで、遅ればせながらかなり仰天し、また呆れてしまいました。

私自身は、以前にFacebookでも明言した通り、麻原彰晃は宗教家としてはインチキの詐欺師に過ぎないと思っており、ですからこの問題について改めて考えてみたいと思います。

ただ、ウィキペディアに記載されているのは吉本隆明の発言のごく一部でしかありません。

そこでさらに検索したところ、産経新聞の記事は見つかりませんでしたが、1995年9月に東京夕刊に掲載された連続対談をアップしてくれた方がいたのです。

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【宗教・こころ】吉本隆明氏に聞く(1)弓山達也氏と対談 [1995年09月05日 東京夕刊]
 ◆麻原被告を高く評価 犯罪は否定、宗教は肯定
http://www.asyura2.com/sora/bd5/msg/733.html

あらためて読んでみると、これも全く馬鹿げた内容で呆れてしまうのですが、中でも次のような発言をされています。

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吉本「僕は思想家麻原を評価する根拠が一点あるんです。それは『生死を超える』という本の前半部で、麻原さんが修行の過程と段階とをとても実感的に説いていて、はっきり体験的に表現している点です。仏教系の経典とか本とかで、日本の奈良朝までの修行僧が、何をやっていたのかは『生死を超える』を読むと、ああこういうことをやっていたんだ、ということが全部言われてしまっています。僕は『生死を超える』という本は『チベット死者の書』や仏教の修行の仕方を説いた本の系譜からいえば、相当重要な地位を占めると思っています。あそこまで言ってしまったら、仏
教の修行の秘密や秘密めかしたところが何もなくなってしまいます。つまり、相当な人でないとここまでやれないよ、と思うのです。やっぱり相当な思想家だと思います。」

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ここまで言われると、麻原彰晃の『生死を超える』を読んでみたくなるのですが、ダメ元で検索してみると、なんとこの本がPDFファイルでアップされているのです。

http://info.5ch.net/images/8/8c/生死を超える.pdf

それで前半部分をざっと読んでみたのですが、これもまぁ、呆れるほどバカらしいものでしかないのです。

何が馬鹿らしいのか?端から指摘して行くとキリがないですが、ざっくり言えば吉本隆明麻原彰晃も、仏教の何たるか、宗教の何たるか、思想の何たるかをまったく理解できていないように私には思えるのです。

その意味で二人は同じ穴のムジナであって、だから吉本隆明麻原彰晃を高く評価したのです。

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それでは仏教とは何か?オウム真理教は仏教として何が間違っているのか?

私の場合「仏教とは何か?」を考える上で、現存する最古の仏典とされる『ブッダのことば(スッタニパータ)』(中村元訳/岩波文庫)に遡って捉えようとします。

この方法は、彦坂尚嘉先生の影響ではありますが、何でも最初に遡って読むことが、物事の本質を考える上での近道なのです。

さて、仏教の開祖とされるブッダ(ゴーダマ・シッダッタ)は自分では文章を書かずに、従ってブッダの教えは口伝によって弟子へと伝えられ、のちの時代の人々に受け継がれて行ったのでした。

そして、しばらく経ったある時から、言い伝えが文字によって書き留められるようになったのです。

さらに時代が経るに従って、仏教経典にはさまざまな注釈や解釈が書き加えられ、多数の経典が派生してゆきます。

日本には6世紀半ばに中国経由で仏教がもたらされますが、それはサンスクリット語パーリ語から漢訳された仏典で、しかもオリジナルからすっかり変貌を遂げてしまった「大乗仏教」だけで、『ブッダのことば』は含まれていなかったのです。

だから「仏教とは何か?」を考える上で、日本仏教から考えるのは残念ながらあまり有効とは言えないのです。

現在の日本は、江戸時代以前とは異なって、古代インドで記されたパーリ語の『スッタニパータ』から直接日本語に翻訳された『ブッダのことば』が誰でも読める環境なのですから、まずその原点に遡って「仏教とは何か?」を考えなければ意味がないのです。

ところが吉本隆明は仏教としては親鸞の教えを評価しており、『ブッダのことば』については一切言及がないのです。

それは麻原も同じで『生死を超える』においても『ブッダのことば』について一切触れられていません。

麻原は『ブッダの言葉』の存在を知らなかったのか?と言うと実はそうではなく、YouTubeに90年代当時にオウム真理教を取材したテレビ番組がアップされており、その中でオウムは仏教の源流を明らかにするため世界各地からさまざまな仏教経典を集めて翻訳していることが紹介され、そこで英語版と思われる『スッタニパータ』の表紙が大写しされたのを私は確認したのでした。

オウム真理教は『ブッダのことば』を収集しながら、なぜ教義としてスルーしたのか?

それが麻原とオウムが本質的に仏教を理解していなかったことの表れであり、「間違い」に至った理由でもあるのです。

端的に言えば、『ブッダのことば』に記された仏教が「宗教」であるのに対し、麻原が『生死を超える』に記したオウム真理教は宗教ではなく「呪術」であったのです。

つまり麻原は「宗教」の何たるかを理解できずに、それを「呪術」に置き換え、そして多くの人の共感を得て信者を獲得したのでした。

宗教と呪術は何が違うのか?

分かりやすく言えば、ブッダは当時のインドで修行者がやるような「苦行」を一通りやってみたのですが、それが無意味であることを悟るのです。

肉体的な苦行によって「超能力」が得られると言う考えは全くの絵空事に過ぎないことを、古代インドのブッダは見抜いたのでした。

それでは『ブッダのことば』では何が重視されているのか?言ってみればそれは「言語による精神改造」で、フロイトラカン精神分析にも通じるものです。

人間は言語によって思考し、従って人間の精神は言語によってプログラミングされており、だから言語を制することが精神を制することであり「悟り」へと道であると、現代的に解釈すればそのような教えをブッダは説いているのです。

具体的に見ると『ブッダのことば』の出だしは次のようになっています。

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ブッダのことば』
第一蛇の章
一、蛇

一、蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘)は, この世とかの世とをともに捨て去る。−蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

二、池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

三、奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

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まだまだ続きますが、このような言葉を繰り返し暗唱しながら、各自の生にとってそれがどんな意味を持つのか?と解釈し続けることが「修行」になるわけで、そこには超能力などの空想的な神秘性は微塵も存在しないのです。

対して麻原の『生死を超えて』はどうかと言えば、のっけから肉体的な修行の話で、それが目的ではないとしながらも、「超能力」が身に付くと宣伝しているのです。

また、修行の段階によって非常な快楽や神秘体験が得られるとされていますが、それらは肉体を痛めつけることにより脳内モルヒネが出てるだけでは?と思わせるものがあるのです。

このように「超能力」や「快楽」や「神秘体験」を目的に苦行をすること自体が、ブッダがその言葉によって否定した「呪術」に他ならないのです。

だから吉本隆明が評価した「麻原さんが修行の過程と段階とをとても実感的に説いていて、はっきり体験的に表現している点です。」と言うのは、実際に読んでみても全くの世迷言でしかないのです。

そしてオウムは1988年に、過度な肉体的修行による過失事故により死者を出し、それを隠蔽するために故意の殺人を組織的に行い、これをきっかけに犯罪者集団の道を歩み始めるのです。

文明と弱者

news.livedoor.com



なかなかに過激な放送がNHKで放映されて、賛否両論のようです。

それで私の意見としましては、まず文明以前の原始時代の人類は、過酷な自然環境の中を生きていて、だから障害者どころか少しでも弱い人間はバタバタと死んで行き、だから人口は現在にくらべて格段に少なかったのです。

しかし人類は農業とともに「文明」というシステムを発明し、その発展とともに人口を爆発的に増やして行きます。

つまり文明とは、自然環境では生き残れないような「弱い人間」を、安全で快適な人口環境によって「救済」するシステムなのです。

文明とは本来的に「弱者救済」のシステムで、このことは『ハンムラビ法典』にもはっきりと明記されています。

日本列島に稲作がもたらされる以前の縄文時代の人口は、最大で約26万人だったそうです。

これに対し、現在の日本の人口は1億2700万人だそうで、その数を比較するだけで、どれほど多くの人間が、現代文明の恩恵を受けているかが分かるのです。

そしていくら文明が進歩しても、自分が事故に遭ったり病気になったりして、障害者になる可能性はゼロではありません。

ですから、かつてのナチスのように障害者を単純に切り捨ててしまうと、人びとは根本のところで安心が得られず、つまり「文明」と言うものに信頼が置けなくなって、そのようにして文明は衰弱してゆくのです。

いったん衰弱した「文明」を復活させるのは実に難しいことで、それは現に文明的なものが衰弱してしまった地域を見ればよく分かることです。

ですからわれわれは、古代の昔から延々と築き上げてきた「文明」というシステムを、大事にしてゆかなければならないのです。

ハンムラビ法典と伊東乾批判

アエラの記事ですが読んでる途中、2ページ目に下記の記述があって「あれっ⁈」と思ったのですが、

「残された時間を精一杯生きる」と、落ち着いた表情で語る豊田君と、私はブロックチェーンや暗号の数理を考え、エジプト式分数を一緒に計算し、古代ハンムラビ法典の野蛮と中世イスラム法の寛容の差を議論した。

私も実は『ハンムラビ法典』原典約を読んでいるのですが、それは決して「野蛮」と言えるものではないし、そもそも「野蛮」ではあり得ないのです。

なぜなら「野蛮」とは、人間が「文明」を築く以前の段階を指しており、ハンムラビ法典が記された古代バビロニアは、れっきとした「文明」であるからです。

そもそも人類史700万年、現生人類(ホモ・サピエンス)20万年と言われてますが、その大半を人類は数十人から百数十人規模の小集団に分かれて「野蛮」な生活を送っていたのです。

ところが、約一万年前にメソポタミアの地に「文明」が発生します。

文明とは、それまで小集団に分かれて暮らしていた人々を統合し、みんなで力を合わせて農業を営んだり、城壁を築いてその中に都市を作ったり、そのようにして自然の脅威から身を守りながら、安定して食物を分配するシステムなのです。

そして、その文明としてのシステムを実現するために、それまで小集団ごとにバラバラだった「言語」を統一したり、バラバラだった「宗教」を統一したのです。

また、文明としての集団生活で何が「悪」なのか?を考え、盗みや殺人などを「罪」と定め、それに対する「罰」を決め、そのようにして「法」が整備されていったのです。

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ハンムラビ法典の内容を具体的に見ると、例えば

§1もし人が(他の)人を起訴し,彼を殺人(の罪)で告発したが,彼(の罪)を立証しなかったなら,彼を起訴した者は殺されなければならない。

まず殺人の罪よりも先に、殺人の「偽証」についての罪が定められているのです。

現在の感覚でこれで「死刑」は厳しすぎると言えますが、この時代は他人を陥れようとする「偽証」が横行していたことが窺い知れるのであり、そうした野蛮な行為を「罪」と定めて罰すること自体が「公正」で「文明的」と言えるのです。

次ですが、

§22もし人が強盗を働き,捕えられたなら,その人は殺されなければならない。

強盗で死刑とはずいぶん厳しくて、これを持って不寛容で野蛮だと判断する気持ちはわかりますが、しかし次をご覧下さい。

§23もし強盗が捕えられなかったなら,強盗にあった人は,無くなった物をすべて神前で明らかにしなければならない。そして,強盗が行われたその地あるいは領域の(行政権を有する)市とその市長は,彼の無くなった物は何であれ彼に償わなければならない。

なんと、強盗被害に対する社会保障が定められているのです。

また、ハンムラビ法典の最後には次の一節が記されています。

§強者が弱者を損うことがないために,身寄りのない女児や寡婦に義を回復するために,アヌムとエンリルがその頂を高くした都市パロンで,その土台が天地のごとく揺ぐことのない神殿エサギラで、(民)の(ための)判決を与え,国(民)の(ための)決定を下すために,虐げられた者に正義を回復するために,私は私の貴重な言葉を私の碑に書き記し, (それらの言葉を)正しい王である私のレリーフの下に置いた。

これは全く、社会的弱者を救済するための法であって、そのような「善意」が根底にあるからこそ大勢の人々が信頼しあって「文明」を形成できるのであり、これを「野蛮だ」と言うことは出来ないのです。

バビロンのハンムラビ王(前1792-1750年)の時代に記されたハンムラビ法典ですが、これが世界初の法典と言うわけではなく、それ以前にあった法典の精神を受け継ぎ改良したもので、その伝統は記事にもあった中世イスラム法(これは私は読んでませんが)などを経て、現在の日本の法にまで通じているのです。

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さて、この記事を読んで「あれっ?」と思って、末尾の記者名を見ると“(作曲家・指揮者 伊東乾)”とあって、「あぁっ!」と思ってしまったのです。

なぜならこの伊東乾という人は、先ごろ「大学の先生宛てのメールに“様”を付けるのはケシカラン!」とツイートして炎上した、東京大学准教授だったからです。

そしてウィキペディアで確認すると、死刑になった元オウムの豊田亨と、伊東乾准教授は東大時代の同級生で、それで豊田死刑囚と面会を重ねて記事を書いていたのです。

その行為自体は立派で社会的に意味のあるものだと思いますが、しかし前述したように「ハンムラビ法典の野蛮」という解釈は全くの間違いで、これは重箱の隅をつつくような指摘ではなく、物事を考える上での「基本」がなっていないことを示すものなのです。

つまりオウムの豊田亨にしろ、伊東乾准教授にしろ、東大出で学歴は立派であるはずが、「文明とは何か?」を考える上での基本文献であるところの「ハンムラビ法典」もロクに読むことが出来ないのです。

それは「ハンムラビ法典殺人罪の適用が多く、時代的にも古く、だから野蛮だ」という通俗的な解釈をなぞっているだけであり、「自分の頭」で読んでいないのです。

私が読んだ「ハンムラビ法典」原典訳は、仮名遣いも新しくて読みやすく、内容も特に難解ではなく、素直に「自分の頭」で読めば、それが決して野蛮ではなく、現代にまで通じる社会保障を含めた「法」の基本を成していることが分かるはずなのです。

東大を出たこの二人が、なぜそのような簡単なことを読み誤るのか?

と言えば、この際あえて乱暴にハッキリ言ってしまえば、「東大卒=頭が良い」という価値判断自体が、単なる思い込みに過ぎず、もっと言えば「洗脳」の一種であるのです。

私はこの「洗脳」を時間をかけて徐々に解いてきているのですが、その方法の一つとして、例えば「ハンムラビ法典」を実際に読んで、「目には目を、歯には歯を」などという通俗的な評価に惑わされず「自分の頭」で読んでみる、と言うことをしているのです。

Facebookと哲学カフェ

「哲学カフェ」って言葉、最近目にするようになって何だろう?と思って調べてみたら、フランスの哲学者マルク・ソーテさんが1990年代に始めて、それが世界各地に広まったのですね。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/マルク・ソーテ

広まったのは、マルク・ソーテさんの著書『ソクラテスのカフェ』がきっかけだそうですが、私もつい最近、プラトンによるソクラテスの対話篇『テアイテトス』を読んでいたのでした。

ソクラテス古代ギリシャを代表する哲学者ですが、自分では本を書かずに、ギリシャの街アテナイを徘徊しながら、色々な人に哲学的な「対話」を持ちかけ、その問答を弟子のプラトンが「対話篇」と言われる書物に書き残しているのです。

その一つ『テアイテトス』の中で、ソクラテスは知性溢れる若者のテアイテトスを相手に、「私が持っている“産婆術”によって、君が自分で新しい考えを産み出す手伝いをしてあげよう」と言って、色々と問いかけるのです。

マルク・ソーテさんが始められた「哲学カフェ」もソクラテスの対話篇に倣って、偉い先生が自分の知っていることを一方的に教えるのではなく、誰もが持っている「哲学的問題」について語り合うことで、各自の考えをより深めたり広げたりするのを目的にしているものと思われます。

と考えると、Facebookのは「哲学カフェ」の機能を十分に果たし得るメディアであることに気付くのです。

もっとも本物のソクラテスはかなりしつこい人で、あまりにしつこすぎで市民に嫌われ死刑になったような人ですから、哲学カフェの気軽な雰囲気とはちょっと違うのですね(笑)

なぜ理系のエリートたちがオウムに入信したのか?

先日死刑が執行された元幹部をはじめ、理系のエリートたちがなぜオウムに入信し、凶悪犯罪に手を染めたのか?という疑問についてです。

これは、各自のウィキペディアを見て確認できるのですが、下記にオウムの科学系の元幹部、村井秀夫、遠藤誠一土谷正実、林郁夫、の経歴を短縮して書きだしてみました。

彼らは実は、もともと理系の優秀な人であったと同時に、科学を超えた精神世界や超能力に興味を持っていて、それで麻原彰晃の本に出会ってオウムに入信しているのです。

これは最近の私の「詐欺師の理論」の通りで、麻原はもともと「騙されやすい人」を引き込んだに過ぎないのです。

ですから疑い深い科学者を無理矢理洗脳して信者にしたわけではなく、もとよりそんなことは不可能であり、だから浅原は洗脳できない相手を殺害してしまったわけです。

オウムに入信したエリートたちは、精神世界に興味を持っていたとは言っても、入信前は「普通のいい人」であり、まさか自分が殺人をはじめとする凶悪犯罪に手を染めるなどとは思っておらず、そこに至る過程に「洗脳」があったわけで、その意味で多くの人にとって「他人事」だとは言えないと私は思うのです。

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村井秀夫

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/村井秀夫

子供の頃は内向的でSF少年であり、勉強は得意で体は丈夫という、テレビの影響で超能力や精神世界、仙道、ヨガなどに興味があり超人願望があったという。また、1972年に友人の兄がトラックへ飛び込み自殺する光景を目撃している。
「歩いて通えるから」という理由で大阪大学理学部物理学科にトップ合格しX線天文学を専攻。大阪大学大学院理学研究科修士課程修了、理学修士となる。
神戸製鋼に入社し金属加工の研究に携わるが、会社にも家庭にも生きがいを感じなかった。その頃、麻原彰晃の著書『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などを読み、1987年4月、早速オウム大阪支部を訪れる。感銘を受けた村井は翌日に会社に辞表を提出し、オウム神仙の会に入信。

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遠藤誠一

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/遠藤誠一

母は世界救世教の信者。高校2年のとき愛犬が病気になったことから獣医を志し、帯広畜産大学獣医学科に進学したが、分子生物学に関心を持ち遺伝子工学の研究をはじめる。この頃、父を癌で亡くしたこと、獣医は飼い主の依頼があれば犬猫を毒殺することもあると知り、将来の目標を獣医から研究者に変えた。
1986年、京都大学大学院医学研究科博士課程に進学。
しかし「生命の本質は遺伝子なのか」という疑問が生まれ、魂の存在など精神世界に興味が向かうなか、麻原彰晃の著作『超能力秘密の開発法』に出会う。理系の人間として否定してきた神秘体験を経験したことで確信を持ち、1987年3月、宗教団体という認識は持たず入信。

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土谷正実

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/土谷正実

高校2年生の時にイオン化傾向に興味を抱いて化学を勉強し始め、学年トップになる。1984年に筑波大学第二学群農林学類へ進学。高校時代から憧れていたラグビー部に入部。しかし、早々に重傷を負い5月末には退部を余儀なくされて、自暴自棄に陥り酒浸りの生活を送る。漫画『ゴルゴ13』のワンシーンを思い出し「体を傷つければ心の痛みを忘れられる」と自ら胸を果物ナイフで40cm切りつけた。「肉体的苦痛により精神的苦痛が和らいだ」「この気持ちを合理的に説明するのは宗教だ」「新たな価値観を掲示する団体が登場したら所属しよう。それまでに得意な化学の能力をより伸ばしておこう」と考えた。
卒業後は同大学院化学研究科へ進学。指導した教授は「発想力豊かで、将来国際的な研究者になる」と高く評価した。博士課程に進んだがオウムにのめり込んで研究室へ顔を出さなくなり、1993年に正式に中退した。

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林郁夫

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/林郁夫_(オウム真理教)

幼少期から思いやりのある子といわれ、人助けがしたくて医師の道を選ぶ。慶應義塾大学医学部卒。
臨床医として癌などの死病の患者と接するうちに、現代医学や科学が乗り越えられない「死」に対して深く考えるようになる。
1977年、桐山靖雄の本に感化され、阿含宗の正式な信徒となり、約12年在籍したが、自身の修行の成果が出ないと悩んでいた。
1987年、書店で麻原彰晃の著書と出会う。信者のヨーガやツァンダリー、インドの伝統医学、オウム食などを用いた修行メニューによる具体的な成就記事などに強く衝撃を受け、しだいに傾倒していく。
1990年、妻子と共に一家4人で出家信者になり、全財産8000万円、車2台を布施として寄付した。