アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

前衛と責任

ニーチェを読みながらの続き。ニーチェオルテガが言うように、現代は「奴隷」の世の中なのである。奴隷とは何か?それは奴隷の身分から解放されてもなお奴隷であろうとする人間、奴隷から解放されても貴族的な自由を謳歌せず、なおも誰かの奴隷になろうと欲する者である。

 

つまり、多くの人はクリエイティブであろうとしない。同時に他人のクリエイティビティを評価しない。いや多くの人はiPhoneなど革新的な製品を評価するが、しかしそれは「便利だから」評価しているのであり、クリエイティビティを評価の中心軸に置いているわけではない。

 

世の中の多くの人は実に「つまらない仕事」をしている。つまらない仕事とは「クリエイティビティとは無縁」な仕事であり、それは誰でも交換可能な仕事であり、「奴隷仕事」なのであり、契約上は奴隷でなくとも仕事の内容としては奴隷仕事なのである。

資本主義の世の中で、多くの人が「つまらない仕事」「奴隷仕事」を嫌々ながら我慢してやっているのかと言えば、実はそうではなく、多くの人にとってそのような仕事が「性に合っている」のである。反対に、多くの人は「面白い仕事」「自らの創造性を発揮する仕事」に就くことを嫌って避けようとする。

 

「人が嫌がる仕事」とは、実は下層の奴隷仕事ではなく、「クリエイティビティを発揮する仕事」こそが大多数の人によって嫌がられる仕事なのである。

 

それは例えば「美術」と言う本来的に自らのクリエイティビティを遺憾なく発揮できる分野の仕事においても、実に大半のアーティストは十全にクリエイティビティを発揮しようとせず、「どこかで見たような作品」のバリエーションを製作して満足する。

それは美術を観る側も同じで、「今までに見たことのないような作品」に人々は見向きもしないし、そのようなクリエイティビティを発揮する美術家を人々は全く評価せず、その存在を無視する。

 

つまり多くの人がクリエイティビティというものについて、それを発揮することにおいても受容することにおいても、基本的には「嫌」なのである。それはなぜ嫌がられるのか?一つにはクリエイティビティとはニーチェの言う「強者」の属性であり「弱者」はそれに本能的に拒否反応を示すのである。

クリエイティビティがなぜ強者の属性なのか?クリエイティビティには基本的に「責任」が伴うからである。「弱者」は一つには自分で責任を負うことを嫌って避けようとするから「弱者」とされるのである。

 

なぜクリエイティビティに責任が伴うのか?それは自らが切り開くところの「前衛」であり、「前衛」は自ら切り開くゆえに「責任」が生じるのである。

 

原始時代の原始生活において、日々の生活は自分で切り開いていかなければ生き残ることはできない。原始時代の人類は自然の淘汰圧により厳しく選別された、少人数の「エリート集団」として存在していた。その生活の場は常に「前衛」であり、自分の責任を肩代わりしてくれる「後衛」は存在しないのである

 

「責任」というものは、自分で負うか、誰かが肩代わりしてくれるか、のどちらかである。過酷な自然環境に晒された原始生活において、例えば足を負傷した他人に肩を貸しながら移動すると、共倒れになるどころか群れ全体の危機を招いてしまう。

 

原始生活という「前衛の場」において、怪我をした責任は自分で負うしかない。これを他人に肩代わりさせようとすれば、群れ全体の存続を脅かしてしまう。という責任論から見れば、文明とは「多くの人間の責任を肩代わりするシステム」ということができるかもしれない。

 

文明とは「弱者」の責任を肩代わりするシステムである。ハンムラビ法典においても私的な復讐は禁じられていて、復讐の責任は国家が肩代わりしてくれる。それによって自然環境では生き残れないような「弱者」の生命が守られ、その「保障」によって国家というシステムが維持される。

 

奴隷は貴族に嫌々ながら使役されているのではない。前提にあるのは、文明とは自然環境では生きられない圧倒的数の「弱者」を救済するシステムであり、そのように自然の摂理に逆らって生存させられている「弱者」は積極的に生きる意味を持たず、「奴隷」とはそのような人たちに用意された階級なのである

 

「弱者」とは、自分が生きる上で何をして良いのかが分からない層を指す。つまり自分のなすべきことをクリエイティブすることができない。そこで弱者には外部から「仕事」が与えられる。

 

自らの生きる意味をクリエイティブできる「強者」にとって、「弱者」向けに与えられた「仕事」は苦痛でしかないが、弱者にとって「クリエイティビティを発揮しろ」と言われること自体が苦痛で、「つまらない仕事」で時間を潰すことこそ「性に合っている」のである。

 

私のように未熟児で生まれた人間は、本来の自然環境であればとっくに死んでいたはずの典型的な「弱者」であるが、たとて五体満足で生まれたとしても、大半の人間は原始時代の自然環境の中では何のクリエイティビティも発揮できず生き残ることが出来ない「弱者」に違いないのである。

クリエイティビティとは、自分で判断し自分で行動することである。自分で判断するからにはその責任は自分にあり、他人には一切負担をかけることはない。この覚悟のない者は、危険に満ちた厳しい自然環境を生き延び子孫を残すことはできない。

 

クリエイティビティを発揮できない弱者は、自分が何をすべきかを他人に決めさせ、その責任を他人に負わせている。現代の民主主義においては、クリエイティビティを発揮できない民(弱者)が主人となり、クリエイティビティを発揮するごく一部の強者を使役する。

 

弱者は強者に対して不満を持ち、恨みを抱くが、それは強者どもが自分たちにに対し十分なお世話ができていないことに対する不満なのである。

 

また弱者は自分たちがだけが貧乏を強いられ、強者たちだけが贅沢を楽しんでいるだろうと恨みを抱いているが、強者は贅沢する以前にさまざまな「責任」からそのリスクを負っているのであり、弱者はそれに耐えることはできないのである。

 

あるいはクリエイティビティを発揮できない弱者にどれだけ金を与えても、その金を使って自分が楽しむだけのクリエイティビティを弱者は発揮できない。だからいくら金があっても虚しいだけで、それが「分相応」と言われる。

信仰と保留

ニーチェ『反キリスト者』を引き続き読んでいるが、思った以上に難しくて難航している。この難しさは、もしかしてキリスト教そのものの難しさかもしれない。確かにキリスト教は、自分がクリスチャンでもなく、聖書は一応読みましたと言える程度の立場からは難しい。

 

そもそも宗教の問題は難しい。だからニーチェを読むのも難しくなる。今のところ私が理解しているのは、宗教とは本質的に「国家宗教」だと言うことである。王が神から王として任命され、神の名の下に法律を制定しなければ、国家というものは成立しない。

 

現代の日本人は、神の存在など非科学的であるというに、なんとなく無神論的に考えているが、一方では徹底した無神論者になり切れずに、神の存在の問題について結論を出さずに「保留」している。この「保留」は、その意味で神の存在を認めていると言う形での、確固たる信仰だと言える。

 

日本人の多くは明確な形での信仰対象を持たないにも関わらず、「神が存在しないこと」を心のどこかで疑って、それについての判断を「保留」している。日本人が使う日本語という言語に、日本人に特有の「神」の概念が組み込まれている。

 

そのような形で、日本人に特有の「モラル」が形成されるが、モラルとはそもそも宗教無くしては成立し得ない。社会的モラルこそが宗教の現れであり、モラルこそが「神」である。だから「神」の居ないところにモラルは存在しない。そして世界の至る所、宗教が定着せずモラルが定着しない国や地域がある。

 

日本には「日本教」なるものが確かに存在する。その存在の仕方はキリスト教や仏教とはずいぶんと異なるが、確固として「日本教」と言えるものは存在する。その存在は終戦後に日本を占領したキリスト教国のアメリカの方が、より明確に認識していたのかもしれない。

 

終戦後のアメリカはマキャベッリの仕方によって日本を占領した。つまり現地人の宗教を破壊せず、そのままの形で残すことで占領を容易ならしめたのである。つまり「日本教」はアメリカによって生かされたのではなく、アメリカによって廃止できないほどに日本人は「日本教」と一体化していたのである。

 

宗教とは何か?は「日本教とは何か?」の問題を明らかにしなければ、少なくとも我々日本人にとっては見えてこないだろう。それは宗教とはそのあり方が多様であり、どのような形態の宗教が存在しうるのか?という認識の問題でもある。

 

要は宗教とは、モラルを持った国民によって国家が形成できれば、その内容や形式はなんでも構わないのである。しかし番人が満足しうる宗教=モラルのあり方は存在し得ず、それがニーチェの指摘する文明に特有の「強者」と「弱者」の問題である。

 

そのようなわけで、ニーチェの読み方が少し分かって来たのだが、ニーチェは一つには宗教を問題にしているのだから、ニーチェを理解しようとするのではなく「宗教とは何か?」を考えながら読んでいく方が“理解”ができるようになってくる。

 

宗教、と言っても普遍的宗教というものがあるわけではなく、宗教はそれぞれに異なっていてそれぞれに特殊である。だからニーチェが述べるキリスト教の特殊性を理解しようと思ったら、「日本教」をはじめとする様々な宗教の特殊性を知って比較しなければならない。

自分と興味

私達にとって、自己こそ見知らぬ者であらざるを得ない。私達が自らを理解することなどない、私達は自分を他人と間違えざるを得ないのだ。私達には「誰もが自分からもっとも遠い者である」という命題が永遠に当てはまるのだ。私達に自分については「認識者」ではないのである…

ニーチェ 『道徳の系譜学』

 

ニーチェのこの言葉を読むと、ニーチェの認識がフロイト精神分析に先駆けているのがよく分かる。デュシャンの墓石に「死ぬのはいつも他人ばかり」とあるが、人は「他人の死」を通じてのみ自分の死の可能性を知るのである。

 

有り体に言えば、人は自分の欠点は分からずとも、他人の欠点はよく見える。だから他人の欠点をよく見て、自分の欠点を知るのである。自分を知ろうと思ったら、他人を知らなければならず、そのためには自分がこれまで全く知らなかった内容が記された本を読む必要がある。

 

自分が知らないことについて書かれた本の中に、他ならぬ自分のことが書いてある。自分がこれまで全く興味を持たず、知ろうともしなかった事が書かれている本の中に、自分についての核心が書かれている。

 

多く人は自分に興味がなく、自分のことを知ろうともしない。だから自分が興味を持たず、知ろうともしないような事柄の中に、自分の本質が隠されている。だから数学に興味がない人の本質は数学の中に隠され、政治に興味がない人の本質は政治の中に隠され、音楽に興味がない人の本質は音楽に隠されている。

 

自分にだけ興味があって、他人に対し興味を示さない人は、実のところ自分に興味を示してはいない。そのような人は「自分が知っている範囲の自分」だけを知って満足し、それ以上の「自分とは何か?」に興味を持たず、つまり自分には興味がない人なのである。

 

本当に自分に興味がある人は、自分を知るために他人を知ろうとし、他人に興味を示す。デュシャンの墓石「死ぬのはいつも他人ばかり」の言葉どおり、人は他人を知ることを通してのみ、自分を知ることが出来るからである。自分を知ると言うことは、自分と他人とを積極的に取り違えることでしかない。

 

強者と弱者

今読んでいるニーチェがなかなかに分かりにくいのだが、もう一度前提を確認しなければならない。それはニーチェははっきり述べてはいないようだが、ニーチェの言う「強者」と「弱者」の対立は「文明」に固有の問題で、なぜなら弱者は文明成立以前の自然環境では存在し得ない存在なのである。

 

大事なことなので、同じようなことを何度も書かざるを得ないが、文明は必然的にごく少数の強者と、圧倒的多数の弱者とを生じさせる。この不均衡は自然の摂理であり、文明というものの構造上の問題であり、人間の力では解決がつかない。それによって様々な問題が生じ、その一つをニーチェは見出した。

 

ニーチェは「強者にとっての善」と「弱者にとっての善」が異なることを発見したが、大局的に見ればそのどちらが間違っているとは言い切れない。現象学的に見れば、世界はそのように現象しているという認識しかできない。プラグマティズム の立場ではどちらの側に立つのが得か?ということでしかない。

 

「弱者にとっての善」を推し進めると、一つには殺生の禁止、肉食の禁止へと至る。特に牛や豚やイルカなどの高等動物は人間に準ずるような知性と感情を持ち、このような者を殺して食べることは倫理的に許されないという理論である。

 

逆に言えば肉食の肯定は、ある意味で「強者の理論」に通じる。豚肉や牛肉は美味しいし、ただ食べるだけではなくそれらの食材から人間は高度な食文化を築き上げている。それらを味わって楽しむ「権利」を多くの人は手放したくないし、その必要性も感じない。

また、牛や豚や羊や鶏は食べてもいいけど、犬や馬やイルカを殺すのは可哀想だし残酷だという理論も、なんの整合性もなく、恣意的で都合の良い感情論に過ぎない。つまり肉食を肯定する理論は、本質的には「人間本来の能力をのびのびと発揮させるため」の「強者にとっての善」に他ならない。

 

多くの人が、カやゴキブリを躊躇なく殺しなんの罪悪感も持たないのも(私は昆虫写真家でもあるので必ずしもそうではないが)、それが「強者の善」として認められているからである。即ち彼らに同情して存在を容認すると、自らの強者としての権利が阻害されてしまうのだ。

 

われわれ文明内の弱者は、一方で強者として振舞っていることを自覚すると、ニーチェの言う「強者の善」がどう言うものかを知ることができる。つまり文明は圧倒的多数の弱者を生み出すと同時に、その弱者を養うための牛や豚や羊や鶏などの家畜を生み出した。

 

ニーチェがいう「畜群」は、文字通りの家畜によって養われているのであり、そもそも野生植物を栽培種化し、野生動物を家畜化することによって文明が成立し、圧倒的多数の弱者の生存を可能にしたのである。

 

そのようにして文明内の「弱者」は家畜に対し圧倒的な「強者」として振る舞い、それによって文明は成立している。また家畜以外のあらゆる野生動物に対し、あらゆる人間としての弱者は「強者たらん」とし、そのような自然環境の制圧こそが文明の本義なのである。

 

どのような人間も基本的には残酷であり、例えその人が肉食を禁じていても、生きた植物を殺してその固い歯で噛み砕いて食べる、恐ろしい存在である。人間は昆虫をはじめとする多くの動物よりも身体が大きく、また組織的に活動し圧倒的な強さを誇る。人間は地球上の生物の中では間違いなく「強者」である

 

人間は、ことに文明人は、人間であるということだけで「強者」なのであり、その強者としての優れた能力をのびのびと発揮する権利を阻害する要素を、ことごとく排除できる圧倒的「強さ」を持っている。そして、そのような強さを発揮することが「強者の善」として肯定されているのである。

 

「強者としての人間」が、さらにそのうちの「強者」と「弱者」とに分かれているのである。しかし文明内の弱者は、それ故に強者なのである。原始時代の自然環境では生き延びられないはずの弱者が生存可能になること、このことが逆説的に弱者が強者であることを示している。

 

ニーチェの言う弱者は一方では強者でもあり、ニーチェはそれに苛立っている。弱者が強いのは一つには自然の摂理によって圧倒的多数を誇るからだ。もう一つは圧倒的多数の弱者によって文明というシステムが運営されている構造上の理由。そして弱者にさらなる力を与える技術の進歩が自律的であること。

産業革命以後の近代的科学技術は、人間の個々の意思とは無関係に自律的に進歩する。なぜならそれら技術の研究開発は「部分的」に行うことが可能で、だから「総合性」を伴う人間の意思とは無関係に、つまり誰かが望むと望まないとにかかわらず、勝手に進化発展して行くのである。

戦争と幸福

ニーチェが教えてくれるのは、我々が見ている世界はことごとく「逆さま」であるということだが、実際に人間の網膜には重力に対して上下逆さまの像が写っているのであり(それは大判カメラのピントグラスを見ても分かる)それを脳内処理で補正しているのである。

 

 

ニーチェ的に考えれば、平和を願うことは愚かであり、戦争を願うことが幸福となる。なぜなら「悪」とはすなわち「弱さ」であるから。真の強者は平和を望まず、なぜなら強者は平和の中では能力が発揮できずに生きながら死んでしまうからである。

 

 

クリエイティビティを発揮することは争いを生む。だから平和を愛する人々は本能的にクリエイティビティを否定する。そう、それは本当に本能かもしれない。クリエイティビティが発揮されるとは、環境が変化することを意味する。そしてあらゆる生物は基本的には環境変化を好まない。

 

 

平和とは何か?と言えば、理念的には「永遠に変化しないこと」が一つ挙げられる。文明における、とりわけ近代以後における時代の変化とは「永遠に変化しないこと」を目指しての変化なのである。

 

 

とどまるところを知らないさまざまな技術の進歩は、もうそれ以上に進歩の余地がない「永遠に変化しないこと」への終局点を目指している。つまり全ての人が幸福で争いのない世界が実現したならば、その先は永遠に変化する必要がなく、そのような世界を無自覚にしろみな目指しているのである。

 

 

対してクリエイティビティを求める人は「変化そのもの」を求める。そこで「変化しない世界」の実現のために変化を容認する人々との間に軋轢が生じる。

 

 

例えば、写真を含むアートの世界において、人々は常に「固定した評価」を作ろうとしている。例えばアラーキーは素晴らしい、という固定した価値が出来上がったら、それを否定してご破算にすることは望まれない。セクハラ・パワハラ問題が起きてもアラーキーの評価が揺らがないのはそのためである。

 

その反面、人はかつて評価した人間を次々に忘れて行く。例えば池田満寿夫だが、今は世間的にすっかり忘れ去られそのピカソまがいの作品を評価する人もいなくなった。つまり世間的な「固定された評価」とは短期的な「夢」に過ぎない。そもそもそれは「永遠に変わらない平和」という夢の一場面に過ぎない

 

 

真の意味でクリエイティビティを求める人は、本質的に平和を望まず、常に戦いを求めている。だから変化を求めない大多数の人たちにとって、常に攻撃を仕掛ける危険な存在として認識される。

 

ニーチェが言う「有能性」とは何か?自分の経験で言えば、自分の無能さは「有能な隣人」の有能性によって顕在化する。原始時代において有能な人間と無能な人間との比較は存在し得ない。無能な人間は自然淘汰され存在しないからである。有能な人間と無能な人間の比較は、文明時代に特有の問題である。

 

 

そうだ、ニーチェに即して考えれば有能性とはあくまでも「戦いのための有能性」であり、それ以外は意味しない。だからニーチェソクラテス、イエスブッダの非暴力を批判したのである。

 

 

ニーチェ的に「正しい人間」とは常に戦いに身を置いて、戦いの中に生き、平和とは無縁で心が安らぐことはごく稀である。原始時代の人間はそのように生き、現代においても先端的な企業の経営者などはこのような立場に身を置いている。

 

 

平和とは本質的に愚かであり、だからこそ転倒した価値がある。自然の淘汰圧は人間の中から少数の「優れた個体」を選別するが、文明においては多数の「劣った個体」を保存しようとする。劣った個体を道場によって保存すること、そこに転倒した新しい価値が生じるのである。

 

 

ニーチェによると、人間にはまだまだその有能性を引き出す潜在能力を秘めているのだが、その反対的存在であるキリスト教によって阻害されてしまっている。

 

 

キリスト教産業革命を生み、そこから生み出された様々な機械によって人間は新たな能力を手に入れた。しかし便利な機械ができると同時に、人間が本来的に備えた能力はことごとく減退することになってしまった。例えば自動車が普及するにつれ人々の脚力は退化し、録音機によって人々の記憶力は退化した

 

 

機械の力を一切使わなくとも、生身の身体と頭脳を鍛えることで、その潜在能力を無限に引き出せたはずなのである。しかしその可能性の芽を、産業革命は潰してしまったのであり、そこから「間違った歴史」が生じたのである。

 

 

私がスターウォーズの、特に新三部作に惹かれたのは、ニーチェ的な真の強者が、その意味での真の善人が正確に描かれていたからかもしれない。つまり文武両道で並ぶもののない並外れた有能性を持つダース・シディアス卿が、同時に最凶の極悪人として描かれているのである。

 

 

これに対して正義のジェダイの長老であるヨーダ師は無能な善人で、判断をことごとく誤り事態を悪くして行き、終いにはダース・シディアスとの一騎打ちで敗れ去る。この描写はある意味で非常に正鵠を射ている。

 

 

しかし、ルーカスの想像力はそこまでで、映画の中で銀河皇帝は恐怖政治による静的な平和を実現したに過ぎない。ニーチェが予言した強者による世界支配は、そのようなものではない。そこでは何より平和が忌避されて戦いが賞賛され、戦いによって人間の能力は無限に伸長してゆくのである。

 

 

戦いによって伸長するような種類の能力が、キリスト教の世界では封印されてしまっているのであり、そのためのキリスト教なのである。キリスト教の世界内で起きる戦争は、人間の潜在能力を引き出すことに寄与しない。なぜならそれらの戦争は「平和」を目的としてしまっているからである。

 

 

どれほどイデオロギーが異なって対立しようとも、それぞれがそれぞれの仕方で「平和の実現」を目指して戦争をしている。このように平和を目的とした戦争は、ニーチェ的には本来的ではなく、目的を取り違えて本末転倒している。

 

 

強い人間たちがお互いに激しい戦争に明け暮れながら人生を謳歌し、弱い人間たちが片隅で怯えながら暮らすような、そんな世界をニーチェは予言したのであろうか?そして実際の世界は、弱い人間たちが結託して強い人間を、そして強い人間の希望を「悪」とみなして迫害している。

 

 

ニーチェの思想が危険でありながら一方で安全であるのは、およそ反対すぎて実現不可能だから。それは同時に今日の世界において「真の強者」が厳しく虐げられていることを意味する。

 

 

それは例えば、私が子供の頃観た映画で、氷漬けになった恐竜と原始人が発掘され現代に蘇る、という荒唐無稽な内容のものがあったのである。蘇った原始人は主人公の少年と仲良しになるが、やがて大人たちに追い回されて捕らえられ殺されてしまう。現代における「真の強者」とはそのようなものである。

 

 

現代における「真の強者」は自らの有能な能力を伸び伸びと発揮する「原始人」のような存在で、凶暴な野獣と変わらない存在として認知され、たちまちのうちに殺されるか、捕らえられ自由を奪われる。 


ニーチェは同情の害悪を説いている。強者は同情を必要としない。つまり「情けは人の為ならず」の言葉通り、他人に同情して施しを与えると、自分が困った時に別の他人から同情されて施しを受ける場合がある。しかし強者は他人の同情を必要としないのだから、他人に同情しても一方的に存するだけである。

同情と文明

ニーチェの『反キリスト者』を読みながら書くが、同情とは何か?を考えると文明以前の原始生活において怪我人や病人に同情すると自分の命はもちろん群れ全体の存続が脅かされる危険がある。従って文明以前に「同情」は存在せず、「同情」によって文明が生じたと見ることが出来る。

 

 

いや、文明発生の根底に同情があったのか否か?については保留するとしても、同情は文明があってはじめて成立しうる事象であるのは間違いない。

 

文明という、自然の淘汰圧を斥けた安全な環境があって、はじめて弱者に対する同情が可能となる。犬やオウムのような動物でさえも、ペットにされた安全な環境においては、他者に対する同情の行動を見せることがある。

 

「同情」のコンセプトは『ハンムラビ法典』には確かに存在するが『ギルガメッシュ叙事詩』には無かった。いやギルガメッシュ叙事詩そのものには弱い者への同情が描かれているが、ギルガメッシュ王そのものには同情心は一片たりとも存在しない。

 

 

ギルガメッシュ王の横暴に対して民は「同情」に訴えることなく(それは理解してもらうのが不可能だから)、王と同等の力を持つ野人エンキドゥを差し向け二人を戦わせ、戦いによって二人に「友情」が生じることで横暴が収まることを目論む。

 

 

ニーチェが言う「強い人間」には本来同情心は存在せず、「友情」をもとめ合っている。原始生活における「強い人間」の集団は互いに「友情」によって結び付いている。厳しい自然環境に抗して生き残れるだけの高い能力を持った人間同士が「友情」で結び付いているのが原始社会なのである。

 

 

原始社会においては「同情」が産まれる余地がなく、それだけ厳しい自然環境に晒されながら人類は生活をしてきたのである。文明社会においてもギルガメッシュ王のように「強い人間」は同等の強い人間との友情を求め、それが得られないと力を持て余して横暴になり「弱い人間」を苦しめる。

 

 

同情とはキャパシティの問題であり、原始時代にはゼロだった同情のキャパシティが、文明の時代となって社会が豊かになるとともに同情のキャパシティも増大してきた。しかしそのキャパシティは無限ではないため、トランプ政権下のアメリカでブロック化が復活しつつある。

 

 

弱い者への同情が文明的な国家の基盤にあることは『ハンムラビ法典』を読めば明らかである。しかしその同情は無限ではなく、どこかで「線引き」をせざるを得ないのである。

 

 

現に人々の多くが理性的に同情は大切であると認識しながら、同時にさまざまなレベルの「線引き」をしながらそのことを意識下へと押しやっている。例えば犬と同等以上の知性を持つ豚に対して同情し、これを食用することに反対する人間はごく一部に限られている。

 

 

どれだけ犬を可愛がっている人でも、その大半は犬と同等以上の異性を持つ豚に対しては一切同情せず、極めて冷酷にその肉を食べる。そのような「同情の線引き」をしなければ「豚肉を味わう」という楽しみが奪われてしまう。またしばしばベジタリアンだった人から報告されるように、野菜だけの食事は健康を損なう。

 

 

人間はズルいので、というか「弱い人間」はズルいので、いたるところあらゆるレベルで「同情の線引き」をしていながら、そのことについて知らんぷりしている。「弱さ」は「認識の制限」と結び付いている。

 

 

「強い人」が「弱い人」に同情するとそれが足枷になるからすべきではない、ということは初期仏典にも記されている。しかしニーチェによればブッダは決して「強い人」ではなく「禁欲的な人」に過ぎない。

 

 

ニーチェによると「弱い人」のうちのごく一部は「禁欲的な人」になることでその他の弱い人々に希望を与える。イエス自身もその他の弱い人間に成り代わって、禁欲的にその痛みを引き受け、だから多くの人々にとっての希望となる。強い人の「強さ」は弱い人にとっての希望にならない。

 

善とは何か?ー権力の感情を、権力への意志を、権力自身を人間において高めるすべてのもの。

劣悪とは何か?ー弱さから由来するすべてのもの。

幸福とは何か?ー権力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。

満足ではなくて、より以上の権力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて、有能性。

弱者や出来損ないどもは徹底的に没落すべきである。これすなわち、私たち人間愛の第一命題。そしてその上で彼らの徹底的没落に助力してやるべきである。

なんらかの背徳にもまして有害なものは何か?ーすべての出来損ないや弱者どもらの同情を実行することーキリスト教

#ニーチェ 『反キリスト者

 

我々「弱者」はニーチェのこれらの言葉をどう受け取れば良いのか?このような書物が今に至るまで日本語にまで訳され出版されている意味は何か?一つには純粋に「真実」を知ろうとすること、もう一つは文明内には文明内の「戦い」が常にあり、自分はどの側に立って何と戦っているかの「見極め」である。

 

 

権力とは何か?それは産業革命の以前と以後では意味合いが違うと言えるかもしれない。産業革命以前は、機械による武器は存在せず、武力の全ては「人力」によっていた。従って各権力者の力のバランスは不安定で、その意味で強者がその力を素直に直裁に発揮できたと言えるかもしれない。

 

 

ニーチェに言わせれば(実際にそれが書いてあるのか不明だが)産業革命による近代化なんぞはまったく「余計なこと」だったのかも知れない。近代こそは機械の力によって、本来の「力のある者」の力を無効にしてしまったのである。

 

 

また芸術においても、近代では写真の発明によって「写実画が上手い人」のその優れた才能も無効化されてしまった。思えば私の中学の同級生で天才だった「田中くん」は写実画の才能もあり当時の私はそれに嫉妬していたが、今となってはそれは無用の才能に過ぎないのである。

 

 

近代がキリスト教から産まれたのだとすれば、キリスト教が近代に先駆けて、優れた人の持つ「何か」を無効にしてしまっていたとしたも、おかしくはないだろう。実際にキリストは徹底した非暴力によって暴力を否定し、暴力が本来持つ優れた意味を否定してしまった。

 

 

ニーチェ的に言えば、暴力は決して否定されるものではなく、むしろ肯定され、賞賛なければならない。我々の常識では暴力を何かいけないもののように感じてしまうが、それはキリスト教により本来の価値が転換せられたのであり、ソクラテスブッダも同じことをしたのである。

 

 

産業革命以後に登場したあらゆるものが、ニーチェの言う強者の持つ力、本来の「善性」をことごとく無効化している。そもそも近代的な機械とは、力のない弱者に、本来的に人間が持てる以上の強大な力を与えるものなのである。

 

 

少なくとも科学者はどれだけ頭脳が優れていようともニーチェが言う強者には当てはまらない。それは弱者に力を貸す弱者に過ぎない。そのようにして世界は近代化が進むにつれてより多くの弱者により大きな力を与えるようになり、強者の存在をことごとく無効化した。

 

 

ヒトラーがしようとしたのは、ニーチェ的な強者に有利な社会の実現だったと言えるかも知れないが、しかしそれを「近代」の枠組みでしようとしたことに矛盾があったのではないだろうか?近代とは本質的に「弱者の世界」なのだから…

理解とコピー

自分が理解したことは自分にしか理解できない。つまり、自分が理解したことを他人に理解させることはできない。同時に他人が理解したことは自分には理解できない。他人が理解したことを自分で理解するには、結局は自分で考えて自分なりに理解し直さなければならない。

 

自分が理解したことを他人に理解させるには、結局はその人に自分で考えてもらって、その人なりに理解してもらうしかない。そんな風であるから、自分と他人ではその理解の内容が一致するとは限らない。

しかし一方の人間が何事かを理解したことによって、もう一方の人間が何事かを理解する、その「理解」は存在する。たとえ理解の内容が一致しなくとも、理解によって理解が生じる。

つまり哲学というものは、その内容をそのまま他人に理解させようとして書かれてはいない。そんな理解は不可能であることが前提で哲学は書かれている。だから難解な哲学書を「私は理解した」という前提で書かれた入門書は実のところ胡散臭い。

難解な哲学書は「理解しよう」として読んだとしても、結局は自分なりに考えて、自分なりの仕方で何事かを理解するしかないのである。難解な哲学書を、その著者が理解した通りに自分も理解するということはあり得ない。

哲学的な理解とは非常に複雑なもので、そのような複雑な理解の内容が、他人と自分とで丸ごと一致することはあり得ない。もし著者が考えた通りにその哲学書を理解しようとした場合、それは必然的にその哲学の劣化コピーになってしまう。

それは名画を正確に模写しようとすると例外なくその劣化コピーになるのと同様である。名画から名画を産むには、名画の真髄を自分なりに理解して、自分なりのオリジナルな名画を産み出すしかない。同様に哲学から哲学的理解を得ようと思ったら、自分なりにその哲学の真髄を汲み取って、自分なりに哲学するしかない。

私は哲学書を読む以前の昔は哲学の入門書ばかり読んでいたが、振り返って考えるとそれらは「私は理解した」という前提によって書かれた哲学の劣化コピーでしかなかった。

コピーは必然的に劣化する。コピー機はなんでもコピー用紙にコピーする。キャンバスに描けれた油絵も、和紙に描かれた水墨画も、画用紙に描かれたクレヨン画も、なんでもコピー用紙にコピーされるから劣化するのである。

そして哲学の入門書は、その著者が「私は理解した」と称して実のところ「常識」という名のコピー用紙にその哲学をコピーするのである。哲学の入門書の著者は、あらゆる哲学書を理解したと称して、「常識」という均一なコピー用紙に次々にコピーして行くのである。

常識を疑い、常識を覆し、常識を溶解しながら思考を深めた哲学が、「常識」という名のコピー用紙にコピーされてゆく。そのように哲学の入門書は、哲学を常識のレベルに押し戻しながら「理解して」書かれており、だから誰にでも分かりやすく、面白く、実用的なのである。

あるいは大学に所属する哲学研究者も、自分が専門とする哲学者を精密に理解しようとして、結局は模写絵画家の立場に陥っている。例えばいくらセザンヌを精密に模写したところで、その模写絵画家の志はセザンヌに遠く及ばない。模写絵画家たちは模写することで満足し、お互いに模写の精密度を競っている。

コピーの本質は「表面のコピー」であり、「本質」を理解してコピーすると全く別のオリジナルなものが出来上がってしまう。

簡単に理解できることは、実は理解ではなくコピーなのである。誰もが「常識」というコピー用紙を持っていて、そこになんでもコピーしてしまう。

別な言い方をすれば、「理解」には二つの仕方がある。一つは「常識」というフォーマットに落とし込んで理解すること。つまり常識とは理解のためのフォーマットなのだと言える。そしてもう一つはフォーマットによらない理解の仕方であり、これが哲学的思考なのである。

哲学とはあらゆるフォーマットによらない理解の仕方だから自分と他人とで「同じ理解」というのはあり得ず、各自各様に創造的な理解をすることになる。一方でこのような「理解の不一致」を解消するために「常識」を共通フォーマットにした理解の仕方が必要とされるのだ。