アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

2017-04-01から1ヶ月間の記事一覧

セミと常識

キルケゴールの「絶望は死に至る病である」という言い方は、常識的に考えるとおかしい。ここに常識と言うものの性質が現れている。常識人の死とは他人の死であり、自分は観客席からそれを眺めている。人が劇場の観客席に座っている限り、絶望して死に至るこ…

城壁と自由

芸術に自由はない。 一般の人びとがあこがれを以て「芸術に自由がある」といった場合の「自由」とは、荒野に城壁で囲った文明の外部へと脱出するような自由なのである。しかしそもそも、人間は荒野から脱出するために、荒野の一部を城壁で囲ったのである。そ…

他者と強要

自己は自分によって措定されるか、他者に措定されているかの何れかだとキルケゴールは述べているが、例えば自分が自分の名前を名乗ったとしても、その名前は他人に付けられた名前なのである。 例えそれが自分で付けたペンネームであっても、その人は常にあら…

自己と絶望

キルケゴール『死に至る病』再読してるが、絶望して自己自身であろうと欲しない場合、ではなく、絶望して自己自身であろうと欲する場合、とはどう言うことか?そもそも人は「自己」がどう言うものかをろくに知らず、そこで冒頭で自己とはいかに複雑で理解し…

認識と模倣

前回投稿したブログ記事は、書き始めは認識の二重化について考えようとしたのだが、結局はそれ以前の「認識とは何か?」の問題を深めることになった。そこで辿り着いたのが「認識とは模倣である」と言うことなのだが、これについては繰り返し考える必要があ…

認識と模倣

最も単純な認識とは、存在の認識である。例えば最も単純な「眼」を持つであるウニは、光の存在を認識して、光のない方へと移動する。人間の場合も、例えばうつ伏せに寝ている背中に本を乗せられても、「何かを背中に乗せられた」というその存在だけが認識で…

認識と模倣

笛は今のように黄銅で覆われ、トランペットと張り合う楽器ではなく、わずかの穴をもつ細身の簡単なものであったが、コロスの歌を伴奏し、これを助け、超満員になることもまだなかった観客席をその息吹きで満たすに十分であった。じじつ、そこへ集まったのは…