アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

「学校」マルセル・デュシャン

<芸術家は大学に行くべきか>

画家のようにばか

フランスのこの諺は、少なくともミュルジェールのボヘミアン生活の時代まで、1889年前後に遡り、議論のなかで冗談として用いられます。
なぜ<芸術家>は世間の皆さんに比べ知的に劣るものと見なさなければならないのでしょうか。
その技術的巧みさとは本質的に手先の器用さであり、知性との直接関係がないからでしょうか。
ともかく、画家は偉大な<芸術家>になるために特殊な教育を受ける必要がないと、一般的に主張されています。
しかし、こうした考察は今日では通用しません。<芸術家>と社会との関係は、前世紀末に<芸術家>が自由を強く主張したときから変わりました。
一人の君主あるいは教会が雇う職人である代わりに、今日の<芸術家>は自由に描いています。そして芸術庇護者たちにはもはや仕えないで、反対に自分たち自身の美学を芸術庇護者たちに課すのです。
言い換えれば、<芸術家>は今や完全に社会に統合されています。
<芸術家>は今日、一世紀以上前から解放されて、一人の自由人のように現れ、普通の市民と同じ権利を付与されて作品の買い手と対等に話をします。
当然のことですが、<芸術家>のこうした解放は、代償として<芸術家>がのけ者や知的に劣るものでしかないときには知らないで済んだ責任のいくつかを負います。
これらの責任のうち最も重要なものの一つは、知性の<教育>です。たとえ専門的に見て知性が芸術的才能の養成の基礎でなくとも、です。
きわめて明白なことですが、<芸術家>という職業は今日の社会では「自由」業のレベルに比較できるようなレベルに達しました。以前のように、もはや一種の高級職人ではありません。
このレベルでとどまるために、そして弁護士、医師などと対等であると感じるために、<芸術家>は同じ大学教育を受けなければいけません。
その上、<芸術家>は現代社会では、職人や道化役よりも重要な役割を演じています。
<芸術家>は容赦のない物質主義に基づく世界と退治しています。その物質主義にあっては、すべてが<物質的幸福感>に応じて評価され、宗教が多くの活動領域を失い、もはや精神的価値の大きな分配者ではありません。
今日<芸術家>は、日々の<機能主義>との絶対的対立をなす疑似精神的価値の興味深い貯蔵庫なのです。一方科学の方はこの<機能主義>のゆえに盲目的賞賛を受けているわけですが、私が盲目的というのは、こうした科学的解決の最高権威的重要性を信じないからです。
たとえば、宇宙旅行はいわゆる「科学的進歩」への最初の歩みの一つであるように思えます。にもかかわらず結局は、それは人間の自由になる領土の拡大でしかありません。これは、現今の<物質主義>の単なる変形と見なさざるを得ません。この物質主義は個人をその内的自我から次第に遠くへと運んでしまうのです。
そのゆえにわれわれは、今日の<芸術家>ががどのような仕事を重要とすべきかという問題へと導かれるのです。つまり、この私の考えでは、いわゆる「<日々の物質的進歩>」の情報を入手し、それに通じていなければならないのです。
重りとして大学教育を与えられた<芸術家>は、同時代の人々との関係においてコンプレックスに襲われる恐怖を抱く必要はないのです。こうした教育のおかげで<芸術家>は、適切な道具を、つまり精神的な価値の枠内で自我を崇拝することによって、こうした物質主義的な状態と対立するための、適切な道具を手に入れることになりましょう。
今日の経済世界における<芸術家>の状況を例証するためには、次のことを見ればわかるでしょう。つまり、通常のどんな仕事でも多かれ少なかれそれを完遂するのに費やした時間に応じて報酬が支払われるのですが、一枚の絵画の場合は、その値段を決めるとき制作に費やされる時間は計算に入りませんし、値段は一人一人の<芸術家>の知名度によって変わるのです。
上で言及した精神的価値あるいは内的価値は、<芸術家>がいわばそれらの分配者になるわけですが、バラバラにされた個人にしか関わらないのです。そしてそうした価値は、社会の一部としての個人に適用される全体的価値とはコントラストをなすのです。
そして見た目がこうであれば、変装してでも、人類の一員としてこう言いたくなります。個人は実際は全くただ一人であり、集団化したすべての個人に共通な特徴は、自分自身に身をゆだねる個人の孤独な爆発とはいかなる関係もありません。
マックス・シュティルナーは、前世紀に、そのすばらしい著作『唯一者とその所有』においてこうした区別を非常に明快に行いました。教育の大部分がこうした社会的特徴の発達に適用されるのに対して、大学教育のほかの部分は、これも大きな部分をなすのですが、個人のさらに深い能直とわれわれの精神的遺産の自己分析と認識とを発達させるのです。
<芸術家>が大学で獲得する重要な長所とは、そういうものですが、これらの長所によって<芸術家>は、宗教自身がすでにつながりを失ってしまったような偉大な精神的伝統を生き生きとしたものにしておけるのです。
思うに、こんにちは<芸術家>はかつてないほど果たすべきこうした疑似宗教的任務を持っています。つまり、芸術作品がしようとにとってもっとも有事綱表現となるような内的視像の炎を照らし続けるという任務を持っています。
言うまでもないことですが、この任務を遂行するには、最高度の教育が不可欠です。
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1960年5月13日にホフストラで実施されたシンポジウムにおいて、マルセル・デュシャンが行った講演テクスト(英語)
(『マルセル・デュシャン全著作』未知谷 北山研二訳 P349−352)