アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

芸術と民主主義

どうも自分は「思い込みが激しい」と反省させられますが、考えてみると私は岡本太郎から赤瀬川原平という「思い込みが激しい」アーティストの系譜なので仕方ありません。いやそもそも、モダンアートと言うものが「思い込みの激しさ」で成立していた側面があったのです。

端的に言えば「芸術とは、思い込みの強さだ」と私は教わってきたのです。岡本太郎『今日の芸術』とはそのような主張であったのです。赤瀬川原平の『反芸術アンパン』『超芸術トマソン』の基底にあったのもそれです。

「芸術とは思い込みの強さである」と言うことは、大衆の多くはそう信じています。Facebookなどのリサーチでも明らかになりましたが、多くの人が「自分が“良い”と思い込んだ作品が“良い作品”」だと頑なに主張するのです。

フッサール現象学に学ぶならば、「思い込みの強さ」とは大衆的で素朴な態度であり、その否定が学問であるのです。民主主義という言葉を文字通り捉えれば、全ての人が民であると同時に君主です。そして民は素朴でけっこうですが、君主は素朴であってはならないのです。

民は民としての素朴さを捨て、君主としての学問を修めなければならず、そうしなければ原理的に民主主義は正常に作動し得ません。それは実に美術についても同様であったのです。

つまり、岡本太郎が主張したような、「思い込みの激しさ」に根拠を置いた芸術は、非学問的であると同時に非民主主義的な芸術でもあるのです。そして戦後日本だけでなく、ヨーロッパ発祥の民主主義時代のモダンアートも、全てが真に民主主義的であったとは言えないのです。

民主主義とは何か?一つには、例えばフッサールの著作が日本語に翻訳され、書店で売られ、誰でもそれを買って読むことが出来るというチャンスを、平等に与えられているというその状況です。その起源は、中世ヨーロッパで教会だけが独占していた聖書を、印刷技術と宗教革命によって、誰にでも読めるようにした事によります。しかし実際に多くの人が聖書を読まず、ましてフッサールの諸作も読みません。

と言うわけで、私の「非人称芸術」とは、非民主主義的なアートであったのです。非民主主義的なアートとは何か?それはオルテガが指摘した「大衆の反逆」です。実に、私の「非人称芸術」とは「大衆の反逆」の、その一つの形態であったのです。

私のアートが「大衆の反逆」だったとして、いったい私は何に反逆していたのか?有体に言えば「そうにしてるだけのつまらないアート」ですが、実際に「真に偉大な芸術」と「偉そうなフリをした偽アート」が世の中に混在し、それが私の中でもごっちゃになっていたのです。

つまり「大衆の反逆」の意味での大衆とは非学問的で「強い思い込み」に根ざしており、各自が勝手に敵を想定しこれに反逆しているのです。己の敵を正確に見据えず敵視するのが大衆の特徴でもあるのです。

生態学に言えば、敵から自分の姿を隠しながら、自分からは敵の姿が見えるポジションを獲得することが、生存に有利な条件です。そして学問とは「認識」であって、あらゆる事物に対し学問的な認識を深めることによって、人は他人よりも生物学的に有利なポジションを得るのです。

鷹はあらゆる事物を高空から見下ろせる、生態学的に有利なポジションを獲得しています。同じように、さまざまな学問を修めて世の中を見通すことが出来る人は、他人よりも生態学的に有利なポジションを得ています。ですからその昔、学問は支配者層に独占され、庶民あるいは奴隷が学問することが禁じられてきたのです。

そして民主主義の時代です。「民」がすなわち「君主」なのですから、誰もが学問的に認識を深め、生態的に有利なポジションを得る自由が与えられているのです。しかしこれは理念に過ぎず、多くの大衆は学問を修めようとせず、もっぱら「大衆の反逆」に没頭しているのです。

「大衆の反逆」とは、非学問的思考による各自勝手な思い込みと、もう一つは同調バイアスです。自分の強い思い込みと同調バイアスとが大衆にとっての「リアル」です。

私はどうしたわけか昔から「同調バイアス」が非常に苦手だったのですが、それを主観的な「思い込み」によって克服しようとしたのです。しかしどちらも「大衆の反逆」である事に違いはなかったのです。

私は「同調バイアス」を憎んでいましたが、「自分の思い込み」を憎む事はなかったのです。これは実に、岡本太郎の態度であり、哲学者の中島義道先生の態度であったのです。しかし例えばパスカルは「神を愛し、自分自身を憎め」と説いています。

反省して自分の無能さを思い知ると、同時にそもそも多くの人が無能である事に気付きます。なぜなら自分とは特別な存在ではなく、自分が劣っているならば多くの他人もまた劣っているのです。自分を反省的に捉える事で、他人もまた反省的に捉えられるようになります。すると急速にさまざまなものの理解が進みます。