アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

岡本太郎と岡本かの子

岡本かの子こそがスゴイのではないか?と言うことは岡本かの子川端康成宛の手紙の字がスゴくて気付いたのだが、静岡市美で開催された川端康成のコレクション展で、数ある文豪たちの書簡のうち、かの子の書だけが際立って、燦然と輝いていた。このテンションは岡本太郎の作品とは性質を全く異なる。

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岡本かの子の芸術は、岡本太郎の芸術とは全く異なっていて、そこが肝心なのである。どこが違っているのか?岡本かの子芸術はかなりハイレベルな古典的な教養に裏付けられているのに対し、岡本太郎はこれを否定した「反伝統」「反文明」「前衛」のつもりで実際には「原始」に回帰している。

ところで、人間が作る建物には「巣の系譜」と「建築の系譜」とがあってふたつは異なっている。私の言っていた「非人称芸術」は「巣の系譜」を言い当てたもので「建築の系譜」を否定している。これも岡本太郎的な「原始への回帰」の影響なのである。

一方で世界はどんどん劣化して行き、岡本太郎岡本かの子よりも劣化し、私もその劣化の中にあった。この劣化とは「進歩」の名の下に進行する劣化であり、それが「近代」の一面なのである。平たく言えば、世の中が便利になるに伴い人間がダメになるのである。

また技術が高度化し専門化するに従い、人間の総合性が失われ、その意味でも劣化が進む。岡本太郎の芸術論は、習得に困難な「伝統」を捨て去って、誠に簡単便利でスピーディーであり「今日的」なのである。つまり大量生産品が粗悪であり、同時に洒落たデザインでパッケージ化し粗悪さを隠蔽している。

これと同様に、岡本太郎の芸術は劣化であり、原始への後退であるにも関わらず、これを隠蔽するための「デザイン」がされており、それが岡本太郎流の歯切れ良く直接的でスピーディーな『今日の芸術』となる。これは誠に皮肉なタイトルだと言える。