アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ユーザー・ブリコルール・エンジニア

認識論的に言えば、人はユーザーと、ブリコルールと、エンジニアとに分かれる。ユーザーは一般常識に対し疑いなく従う人々。ブリコルールは常識をベースに工夫を施す人々。エンジニアは常識を疑い根底から覆そうとする人々、というふうに整理分類できる。

ユーザーと、ブリコルールと、エンジニアには必ずしも明確な区分けがあるとは限らず、境界が曖昧だったり、各要素がレイヤー的に重なっている場合がある。

人間と動物とでは、同様の認識の仕方をしている面と、異なった認識の仕方をしている面とがある。つまり、人間の言語による認識は人間に特有のものであり、非言語的な認識は動物に共通のものだと仮定できる。

人間は日常的に動物と同様の言語によらない認識を行なっているが、同時に言語による認識も行なっている。そのためこれら二つの認識方法が重なり合い、それぞれを区別することがなかなかに難しい。

しかし冷静に自己分析してみるならば、人間は実に多くの場合、言語によらない動物的な認識を行なっている。

それがつまりアフォーダンスによる認識であり、人間を含むすべての動物種に共通の認識方法である。それは非言語的認識であると同時に、あらゆる動物種に共通する言語的認識だと仮定できる。

アフォーダンスがなぜ言語なのか?と言えば、これを象徴と言い換えも良いのだが、いずれにしろ動物は原理的に対象物を直接認識できないと仮定される。とすると、あらゆる認識は対象物そのものではなく、言語であり象徴となるのである。

視覚と動き

知覚についての覚書。動物の知覚は動いている対象物と、動かない環境とをどのようにして判別するのか?動物が自分の体を移動させると、それに連動して視覚情報も変化する。自分の体の動きと、視覚情報の変化が「連動」している場合、その視覚情報は「動かない環境」として認識される。

自分の体と移動と無関係に視覚情報が変化した場合、その変化した部分の視覚情報は「動くもの」として認識される。自分で自分を観察すると分かるのだが、人間の目は絶えず動いている。人間は絶えず目を動かすことで「動かない環境」と「動く対象物」を判別しようとしている。

目を動かしてものを見ることは、手でものの表面を撫でることでその質感を認識することに似ている。手を動かさずにものに触れるだけでは、触感による知覚は生じない。同じように、目は常に動かしていないと「視覚」は成立しない。人間は視覚的にものの表面を撫でながらそのものを認識する。

ところでカエルを観察すると、彼らは目を動かさずにじっと静止していることが多い。この時は実に、カエルには何も見えていないのではないだろうか?しかしカエルの目の前で虫などの獲物が動けば、カエルの視覚情報も動くことになり、そこに視覚が生じる。そしてカエルは獲物を捕らえて食べるのである。

卓越したエンドユーザー

 

 

現象学的に言えば、全ては自分の主観のうちに生じた現象であるが、他者にもまた自分と同様の主観を有し、その主観にもまた同様の現象が生じているように、自分の主観のうちに現象している。

 

これは人間以外の動物も同様で、動物個体はそれぞれに主観を有し、その主観にそれぞれ固有の現象が生じているように、現象していることが観察できる。

 

人も動物も、それぞれの主観に固有の現象が生じいる。しかし、各自が別々の夢を見ているのではなく、多くの人や動物があたかも同じ夢を見ているように、反応する。それは人や動物たちの反応を観察することで、判断できる。

 

人や動物たちは共通の夢を見ているようでいて、その夢は同時に様々な面で異なっている。つまり人を含めたあらゆる動物に普遍的に共通する「同じ夢」が存在し、それがアフォーダンスと呼ばれるものである。

 

人も動物も「現実」を直接認識することができない。これがラカンの《現実界》の一つの意味である。人や動物が認識する世界は「現実そのもの」ではあり得ない。なぜなら同じ現実を目の前にしながら、それぞれが主観的に受け取る現実のありようは異なっているからである。

 

ラカンの《想像界》《象徴界》《現実界》のうち《想像界》とは何か?はなかなかに難しいが、一つには「ユーザーインターフェース」だと考えられる。つまり与えられた道具を説明書通りに使用する世界が《想像界》であり、その意味で何のクリエイティビティもそこから生じることはない。

 

象徴界》とはエンジニアリングの世界である。あらゆる動物のうち《象徴界》を対象化して認識できるのは人間であり、そのうちのエンジニアだけである。

 

想像界的なユーザーインターフェースを超えた向こう側の《象徴界》を対象化し、これを操作することでクリエイティビティを発揮するのが、最も広い意味での《エンジニア》だと言える。

 

いや、「想像界=ユーザーインターフェース」であると、あらゆる生物にとってそうであるとは言い切れないかも知れない。人間のインターフェースは他の動物に比べて特殊であり、つまりスマホやパソコンのようにデフォルトが存在しないと同時にユーザーが自由にカスタムすることが前提となっている。

 

人間のユーザーインターフェースのカスタムの自由度において、人間に固有の《想像界》が生じるのではないか?

 

有り体な言い方における「自由な想像」とは何か?その反対を考えると分かるかもしれない。例えば言葉で決められたことを解釈の余地なく遂行するお役所仕事に「自由」はなく、そのような自由を許せば役所の仕事は成立しない。

いやそうではなく、主観的に「自由だ」と思っている大多数の人々も自分に固有の考えに囚われており、 その意味で自由ではない。いやそれを言うのであれば、自由には二種類があって、一つは「自由だと主観的に思うこと」であり、もう一つは「真の自由」である。

 

そして「主観的自由」は人に快楽をもたらすのに対し、「真の自由」は人に苦労をもたらす。つまり「主観的快楽」とはユーザーインターフェースの問題であり、エンドユーザーは常に快楽を求める。

 

これに対し「真の自由」はエンジニアリングの領域であり、エンジニアは真の自由を追い求めて苦労を背負い込むのである。

 

後発のエンジニアはリバースエンジニアリングから始めることになる。リバースエンジニアリングを行うにはユーザーインターフェースに惑わされてはならない。ユーザーインターフェースを説明書通りに操作している限りは、何のエンジニアリングも行うことができない。

 

私は学生時代に漫画家になりたいと思ったこともあったのだが、当時は漫画のユーザーインターフェースに呑まれてしまい、リバースエンジニアリングが出来ず、結局は漫画が描けなかった。当時の私は「才能論」に取り憑かれており、漫画に限らず全ての創作物は才能の産物であると信じていたのであった。

 

若い人は才能論に陥りがちではないかと思うのだが、実際に天才的才能と言えるものは、多くの場合若い人に見られるのである。しかし若者の才能とはエンジニアリングではなく、卓越したエンドユーザーに過ぎず、その意味での限界があるのではないか。

 

私の中学の同級生「田中くん」は天才的才能の持ち主で、何の専門教育を受けていないにもかかわらず絵が上手く、漫画も描き、難解な哲学書を読みこなし、自らの思想を記した『大衆論』を自費出版したのだが、結局は中学卒業後しばらくして精神病院に入れられたまま現在に至っている。

つまり、若い頃の私から見て「田中くん」はまばゆいばかりの天才的才能の持ち主に思えたのだが、今から振り返ればその才能はエンジニアリングではなく、卓越したエンドユーザーに過ぎなかった。

 

「田中くん」は結局のところ自らのユーザーインターフェースに囚われて、哲学書を読んでもエンジニアリングとしてその向こう側に突き抜けることができなかった。そのため大風呂敷を広げた割には現実社会に適応できず、精神病院で一生を終えることになったのである。

認識と時間

時間とは何か?あらゆる認識は、時間を介することによって成立する。認識とは関係の認識であり、時間を介さなければ関係の認識は成立しない。 光についてその強弱だけを認識する単純な生物がいたとして、その生物は光の「強」と「弱」の関係を時間を介して認識する。

 

どんなに単純な生物であっても、その生物が何事かを認識する以上、そこに「記憶」が存在する。光の強弱だけを認識する生物であっても、「さっきまでは暗かった」という記憶との比較によって「今は明るい」ということが認識できる。

 

時間を伴わなければ音楽を認識できない。時間を伴わなければ、あらゆる音楽はその瞬間の単音としてだけ聞こえるだろう。いや単音とは「持続する単音」であって、それを認識するにはやはり時間を伴っている。音が波長であるなら、時間が排除されたなら音は成立せず、従って音は消えてしまう。

 

認識に伴って時間は発生する。空間を認識するにも、時間を伴わなければ不可能である。その意味において、時間と空間は一体のものであり区別がないと言える。

 

時間とはもう一つ、人間の寿命と関係している。人間には自分の死を認識する能力が備わっている。そして自分が死に向かって老いて行くことを認識する能力が備わっている。故に時間の概念が人間に生じる。時間とは有限であり無限であるという両面性によって認識される。

 

もし人間に寿命がなく、老いることもなければ「時間」の概念も生じ得ないのかも知れない。もし人間が不老不死であり、水や食べ物を摂らなくとも死ぬことはなく、病気や怪我もたちどころに治って死ぬことがないとすれば、その「時間」の概念が生じる余地はないかも知れない。

 

あらゆる動物は一定時間食物を摂らなければ死んでしまう。この時間制限において、動物には普遍的に「時間」と概念を持ちうると考えられるかも知れない。

 

空間認識には不可避的に時間が伴うのであり、その意味において空間と時間は一体であり、だから「時間」は存在しないと言える。ところがあらゆる動物は、一定時間以上、水や食べ物を摂らなければ死んでしまう。その時間制限は飢えや渇きとして認識され、そこに原初的な「時間」が認識される。

生活世界とインターフェース

生活世界は確かに存在する。生活世界は氷山の一角で、 見えない海中の氷山にはどのような世界が存在するのか?…何れにしろ生活世界に埋没する限りそれが世界の全てだと認識され、生活世界そのものを対象化されることはない。従って生活世界そのものの存在を意識することは重要である。

 

生活世界とはユーザーインターフェースではないか?生活世界が氷山の一角だとして、その目に見える一角の氷山とはユーザーインターフェースではないだろうか?人間が何故ユーザーインターフェースを構築できるのか?と言えば、生活世界そのものが人間にとってユーザーインターフェースだからである。

 

目の前にものがある、目の前に空間が広がり、そのにさまざまな物体が配置されている、という生活世界における当たり前の感覚そのものが、ユーザーインターフェースとしてもたらされているのである。

 

例えばカメラにはファインダーやピントリング、絞りリング、シャッター速度ダイヤルなどのユーザーインターフェースが備わっており、カメラのユーザーにとってはそれらインターフェースが「全て」である。しかしユーザーインターフェースは氷山の一角でその下にはエンジニアリングが隠されている。

 

ところでギブソンを読み始めたのだが、空気と水は光を通過させるとともに、動物の身体も通過させる。よって光を通過させる媒質は、自らの身体も通過可能であると判断される。この逆に光を通過させない媒質は、自らの身体も通過できない地面か障害物であると判断される。 https://pic.twitter.com/Fbr4cOLgrI

 

光学的肌理が持つ形に関して重要な事実を指摘しておこう。光学的肌理の形は幾何学者が言う通り変換を経ても不変である。例えば一方が三角形から、他方が矩形から成る二種類の肌理が拡大されたり遠近法に従って奥行きを縮約して描かれたとしても、それらが三角形や矩形から成っていることは変わらない

 

肌理の形に関するもう一つの重要な事実は「光の強度が変化しても肌理の形は変化しない」ことである。つまり光配列の構造はそのエネルギーレベルとは無関係なのである。#ギブソン心理学論集 P33

 

 

言語が現実に対応している以前に、光がもたらす情報は現実と対応している。しかし言語が現実ではないように、光の情報は現実ではない。そこで、光の情報の現実へと的中率が問題になるように、言語の現実への的中率が問題となる。

 

言語によらない象徴作用

人間以外の動物は言語を介さずに世界を認識する。動物は言語以外の方法によって、世界を象徴化して捉える。動物にとっての環世界は、種に固有の身体によって捉えられた様々な象徴の関係によって成立している。

 

現象学的に考えれば、人間にとって言語によって象徴化せずとも立ち現れる環世界が確かに存在し、それは人間以外の動物とも共有されているかのように、現象している。人間の言語機能は進化する、この点は重要である。少なくとも、人間が文字を獲得した段階で、それ以前より言語機能は進化している。

 

人間の身体は生物学的に進化しないが、人間の文化は進化する。そして文化とは言語であり、言語は進化する。言語によって、自然物の「加工品」が生み出される。自然物の加工の仕方を言語化しなければ、加工は不可能である。

 

人間が言語によって自然物を加工してモノを生み出すと、生み出されたモノはそれ自体が「動物的象徴化機能」によって捉えられる。例えば「木の椅子」を作ろうと思っても、その作り方を言語で理解しなければ、作ることはできない。

 

たとえその人が日常的に木の椅子を使っており、その限りにおいて木の椅子についてよく知っていたとしても、それと同じ木の椅子を自分で作れるとは限らない。

 

つまり、木の椅子を漠然と認識しているだけでは、それを作ることができない。「漠然と認識する」とは動物的象徴化機能によって、それを認識することである。

 

「木の椅子」は確かに言語であり、それによって対象物を認識しているのは確かだが、しかしそれは同時に「言語によらない象徴化機能」により認識される。その証拠に椅子の存在そのものは、言語を使用しないネコやサルにも認識できるのである。

 

ネコは椅子をどのように認識しているか?「地面」との関係で捉えれば、それは自分の進路を遮り、地面に対してある「高さ」を有しており、ごく狭い「面積」を有している。それでこの椅子は、ネコにとっても落ち着いて座ることのできる場所になりうるのである

 

ネコは言語によらずして、椅子の特徴を象徴的に捉える。人間は椅子を「椅子」という言葉で言い当てると同時に、ネコと同じレベルで、言語によらずして椅子の特徴を象徴的に捉える。動物の身体は、それ自体が計測装置なのである。計測装置は計測数値を象徴的に表示する。

 

ネコの身体はそれ自体が計測装置であり、その固有な装置に応じた計測結果をもたらし、ネコ自身はこれを利用して世界認識する。人間の言語は計測装置としての身体の拡張である。だから人間は計測装置としての身体と、計測装置としての言語を併用しているのである。

言語による認識と、言語によらない認識

人間は言語によってのみ認識しているのではない。人間は言語による認識と、言語によらない認識とを併用している。言語によらない認識とは何か?と言えばこれは言語によらない象徴作用であり、動物的な象徴作用だと言える。

 

言語によらない象徴作用とは何か?を自らのうちに観察して選り分ける必要がある。

 

私は子供の頃から絵を描くのが得意な方だったが、逆に言えば大部分の子供は絵を描くのが苦手だと言える。それは大人でも同じで、大部分の人は絵が描けない。これは考えると不思議なことで、目が見える人なら誰でも具体的な世界を見ているはずなのに、それをそのままリアルに絵に写して描くことができない。

 

それをするには、いかに絵を描くのが得意な私であっても、美大の受験予備校でデッサンの特殊な訓練を受けなければならなかったのである。デッサンの訓練とは、眼に見える対象物を改めて言語によって象徴化する訓練だと言える。

 

逆に言えば人は普通、眼に見えるあらゆるものに言語を当てはめて象徴的に認識しているようでいて、実際にその機能は補助的にしか作動していない。人は眼に見える具体物を漠然と見ている。この「漠然と」とは一種の象徴化、言語によらない象徴化、動物的象徴化機能が作動している状態だと言える。

 

逆に言えば人間以外の動物は言語を使用せずに事物を漠然とした形で、しかもよく認識している。人間も動物も言語を使わずして物事を漠然としながら詳細に認識することができる。それは人間の文字の認識機能にも関わっている。ワープロを使いすぎると、漢字を読むことはできても書くことが出来なくなる

 

そのような時の人間は漢字を漠然と、同時に詳細に捉えている。おかしな言い方ではあるが、漢字を漠然と正確に認識する機能が、言語によらない動物的象徴化機能なのである。

 

動物的象徴化機能の上に言語的象徴化機能が乗っており、さらにその上に動物的象徴化機能が乗っており、そのようにレイヤー化されている。