アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

現象と写真

写真は自分の外部世界を写すものだと思っていましたが違いました。現象学的に捉えれば、素朴な感覚で外部世界と思えるものは、自分の内面に生じた《現象》だからです。ですから写真は自分の内部に生じた《現象》を写すもので、だから写真にはそれを撮った人の内面が現れているのです。

写真には、その人が自らの内面をどう見ているか?ということが現れています。或いはまた、その人は自分の内面の何を見落としているのか?何から目を背けているのか?も現れます。写真にはその人の見ているものと、見ていないものが、同時に写されています。

複雑な人の写真には複雑なものが写り、単純な人の写真には単純なものが写っています。世界を構造的に捉える人の写真には構造が写り、世界を表層的に捉える人の写真には表層が写っています。事物を関係性で捉える人の写真には関係が写り、事物を個別に捉える人の写真には個別のものが単体で写っています。

世界を自明的に捉える人の写真には自明性が写っています。実に、私はそのような自明性へのアンチテーゼとして、フォトモの手法を開発したのでした。しかし私は私の自明性に囚われており、そのような不徹底が私のフォトモには現れていたと言えます。

以前、友人の写真家が「自分の内面を撮っている」と言ったのに対し、私は「そんなのは気のせいに違いない」などと思ったのですが、今なら自分の間違いを訂正することが出来ます。写真家に限らず、人間に見えているのは外部世界ではなく、自分の内部に生じた《現象》なのです。

世界とは自分の鏡です。人は外部世界に向き合っていると思い込みながら、その実自分の向き合っているのです。他人も自分の鏡です。人は自分とは異なる他人と向き合っていると思い込みながら、その実自分の鏡を見ているのです。ですから写真家が何を撮ろうとも、そこには隠し様のない「自分」が写ります。

問題は人が、写真家が、何を見て何を見通すかということです。あるいは何を見落とし、何から目を背けているかです。人は外部世界を見ているつもりで内面の《現象》と向き合ってます。そして《現象》は、無限の空間と無限の時間を持つ世界として、また自分とは異なる人格を持つ他者として、現象しているのです。

写真家の写真には、写真家が自分自身をどう見ているか?が現れています。写真の遠近感とはその意味です。遠近感とは写真より以前に、写真を撮る人の内部世界にあるのです。薄っぺらい遠近感を生きる人の写真は薄っぺらに、深い遠近感を生きる人の写真には深い遠近感が写ります。

小説家は小説の文法をマスターし、哲学者は哲学の文法をマスターし、写真家は写真の文法をマスターしています。文法をマスターすることで表現が可能となりますが、文法とは自分の認識として現象した世界を読み解く文法であり、自分自身を読み説く文法です。

カメラのシャッターを押せば写真は撮れますが、どのようなかたちであれ写真の文法を知らなければ何も写りません。写真の文法がない人の写真には「その人には何も見えていない」と言うことが写っているのです。素人の写真が「何を写そうとしてるのか分からない」とよく言われるのはそのことです。

ある特定の文法しか知らない写真家の写真は単調です。その人は、そのように単調に世界を見て、それが写真にもよく現れるのです。ある特定の文法を自明的に捉える写真家の写真は自明性が強いのです。自明性に疑いを持つ写真家の写真には、哲学的要素を持って人々に語りかけます。

写真家の写真はそれぞれの仕方で人々に語りかけますが、人々の反応もそれぞれです。自明的に生きる人は自明的な語りかけに反応し、自明性を疑う語りかけには同様の問題を共有した人が反応します。写真家のニッチ(生態的地位)は、人々の生態にそれぞれ対応しています。

リー・フリードランダーのウィキペディアにあった記述です。

フリードランダーが写真界に留まらず20世紀のアーティストとして最も重要な人物の一人である
その歴史的意義として指摘されるのは、それまでアメリカの風景をフリードランダーのようなやり方で表象したアーティストは存在しなかった

 

日本のカメラ技術は、欧米で開発された技術の模倣から始まり、やがて世界最高水準にまで達し、主流を占めるまでになりました。日本の技術は言わばカメラの歴史に参与し先導する立場にあります。一方で日本の写真家の写真は、写真や美術の歴史にどのように参与してるでしょうか?