アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

経験と反復

経験は何度も同じ経験を繰り返さないと、経験することができません。例えば「おいしい白飯の味」というのも、白飯を繰り返し食べる経験を経なければ「おいしい白飯」と「おいしく無い白飯」の区別が付かず、従って白飯を一回食べただけで「おいしい白飯の味」を経験するのは難しいのです。

経験とは理屈ではなく直感で、「おいしい白飯の味」もこれこれこういう理由でおいしいというような理屈ではなく「おいしい!」という直感として経験されるのです。そこでこの直感というものは、一つには経験の繰り返しによって養われると言えるのです。

経験の繰り返しとは何か?と言えば、「今」という一瞬において重層的な過去として直感的に経験されることを指します。

経験には二つの極があり、一つは一回限りの初めての経験であり、もう一つは繰り返しの重層的な経験です。経験は一回の経験から繰り返されるたびに、経験としての質が変化し、経験そのものの内容が変化します。それは例えば子供の味覚的好みから、から大人の味覚的好みへの変化として現れます。

子供は一般に辛い料理が苦手です。私も今でこそ激辛料理が好きですが、以前はそんなことはなかったのです。しかし韓国旅行をした際に、滞在した数日間のうちに激辛韓国料理を繰り返し食べるうち、だんだん激辛に慣れてきて、激辛大好きへと味覚が変わったのです。

韓国での繰り返しの経験によって、私は激辛料理を食べることが「美味しいと経験できる」ような直感力を身に付けることができたのです。

異なる例で言うと、私はハンガリー旅行をしたこともあったのですが、ハンガリー料理は同じ激辛でも唐辛子の辛味ではなく、劇塩辛で、ともかく何を食べても塩分の量が体感で通常の5倍以上もあって、辟易としたのです。

つまりこのハンガリーでの繰り返しの経験によって、私は塩辛い味に慣れて、劇塩辛大好きにはならなかったのです。韓国での経験とのこの違いは何か?と言えば、一つは唐辛子の激辛は健康に良さそうだが、劇塩辛は健康に悪そうだと直感されるのです。

そして健康に良さそうな激辛は「美味しい」という要素として直感され、健康に悪そうな劇塩辛は「不味い」要素として直感されたのです。別の見方をすれば、私は劇塩辛に健康上の不安を直感し、劇塩辛味の経験が「蓄積しないよう」抵抗したと言えるのかもしれません。

というのも、同じ経験を繰り返しても、その経験が蓄積される人と、蓄積されない人とがいるのです。つまり食について言えば、誰もが毎日繰り返し食事をしているにもかかわらず、誰もが味覚の良し悪しに敏感なグルメになるわけではなく、いわゆる味音痴や悪食な人もいるのです。

つまり経験の蓄積には「意志」の介在が必要なのであり、意志のないところに経験の蓄積はないと言えるのです。私が韓国旅行で激辛に慣れたのも「激辛に慣れよう」という意志があったからなのです。

その意志とは、私にはどういうわけか食についての探究心があり、苦手だった激辛料理も、韓国旅行をきっかけに克服したいという意志として作動したのです。

西田幾多郎善の研究』冒頭に

経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。

とありますが、経験の蓄積によって「事実そのまま」というところの「事実」そのものが変化するのです。続いて

純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。

とありますが、経験の蓄積により「毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態」そのものが変化するのです。

「何の解釈も加えない純粋な経験」「一切の理屈を超えた純粋な直感」の内容は、子供と大人では異なるし、素人と専門家でも異なるし、それは経験の蓄積量によって異なってくるのです。

もちろん、子供や素人のように経験の浅い者の直感が、専門家の判断に比べてより的確に働くことはあります。しかしこの場合の大人や専門家の経験の蓄積は、真の意味で経験の蓄積ではなく、実のところ理屈の蓄積に過ぎず、その理屈が純粋な直感を阻害しているに過ぎないのです。

直感力は経験の蓄積によって養われますが、経験を蓄積するつもりで理屈や概念を蓄積し、これによって純粋な直感力が阻害されることが、往々にしてあるのです。

純粋な経験は「判断する前」を指しますが、経験の蓄積により「判断する前」そのものが変化するのです。一方で理屈や概念の蓄積は「判断」そのものを変化させます。そして哲学とは、それを学ぶことで身に付けられるのは後者よりもむしろ前者であり、それが西田幾多郎の教えではないかと思うのです。

私も実にそういうところがありましたが、現代日本人の多くが経験の蓄積によって直感を養おうとせず、自分に直感力がないことの代用として、理屈を知ろうとしたがるのです。これは一つには時代のせいであり、「繰り返しの修行により直感力を養う」などと言われると、何となく前時代的で古臭く思われるのです。

殊に美術において、「作品制作のために知力を尽くし、知力を尽くすために直感力を養い、直感力を養うための厳しい修行に励む」という事が、とても時代錯誤で古臭いことのように思えるようになっている。実際今の時代において、レオナルドダヴィンチのようなレベルの細密な絵を描くことは考え難いのです。

いや現代においても細密な写実画家は存在しますが、それらは基本的に写真起こしであり、写真術が発明される以前のダヴィンチの絵とは、そこに込められた知力のレベルが異なるのです。

今の時代、レオナルドダヴィンチほどの知力を担っているのは、美術の分野ではなく、近代になった工業分野に移り変わったのです。そして美術の分野は、知力から解放されてその意味で自由になったのです。すなわち知的な努力から解放された作品こそが「現代的」と感じられるようになったのです。

その意味で美術における「天才論」は、近代の産物であると言えるのです。何故なら才能は努力とは無関係で、知性とも無関係で、だからアーティストの才能とセンスだけで描かれたような作品は、その現代的な軽さにより人々に好まれるのです。

近代になってアーティストは知性から解放され、知性から切り離されたのです。そしてその分の知性を評論家が受け持つようになったのです。芸術家は知性を超えた天性の才能とセンスで作品を描き、評論家がそれを知的に理解して言葉に置き換え体系化するのです。そのような分業が現代的と感じられるのです。

だから今の時代において、工業製品を製造するような知性を用いて美術作品を製作しようとすれば、それはダヴィンチの製作方法を現代に行うような、極めて時代錯誤で古臭く感じられるのです。しかしこれはおそらく日本においては特にそうだと思われるのです。

芸術家が作品制作のために哲学を学ぶそのこと自体が、極めて時代錯誤のように思われているのです。芸術の才能と、哲学とは無関係であるのです。才能のある芸術家は、哲学を学ばずとも作品制作はできるのです。哲学は美学者や評論家が担当すればいいのであり、そのような分業こそが現代的であるのです。

ダヴィンチのような総合的人格、万能人としてのアーティストのあり方は、とっくに過去のものとなっています。現代は分業の時代で、アーティストの誰もがそれぞれに固有の欠損があり、その欠損こそがアーティストの魅力であり、固有の才能やセンスとして花開くのです。

近代は分業の時代であり、人格も総合的であるより人それぞれに断片化しているのです。そのように、それぞれに断片化した人格こそが「人間らしい」と感じられ親近感が持たれるようになり、つまり自分にとって対等で相補的で安心できる相手と認識されるのです。