アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

恣意性と無意識

改めて気づいたのだが、自分は恣意性とか偶然性が何なのかがよく分かっていなかった。それは端的に言えば、現代的にはフロイト的な無意識によって解釈すべきである。だが以前の私は、フロイトの無意識をきちんと理解していなかったために誤解があった。

 

以前の私は、作品が恣意的に作られることに対して恐れがあった。美大を卒業しながら「何を作っていいか分からない」という思いがあったのは、恣意性を排除して、何か必然をもって作品を作ることができないでいたからだ。

 

だから私はフォトモの技法によって「写実」へと向かったのであった。写実技法によって現実の再現をする限り、その意味で恣意性は排除される。

 

では何を写実で表現するのか?その点においても恣意性を排除する必要がある。そしてそのためのコンセプトが「非人称芸術」だったのである。「非人称芸術」とはつまり「偶然の神聖化」であり、神聖化された偶然は恣意性の問題を超越しているのだと措定したのである。

 

言い換えればこれは、純粋な集合無意識を神聖化したのである。もちろん当時はフロイトは読んでおらず、フロイト的な意味での「集合無意識」も理解してなかったが、つまりはそう言うことだったのである。

 

私の「非人称芸術」はフロイト的な集合無意識の言い換えで、これを神聖視したものである。しかしフロイトの無意識の意味は、それが個人の無意識であっても本質的には集合無意識なのであり、その意味で非人称的なのである。

 

芸術が人類的な集合無意識の産物であり、その端末である芸術家によって産み出されるのであれば、「非人称芸術」という概念は完全に無効となる。それとともに私に取っての「恣意性の問題」も同時に解決されるのである。

 

芸術が無意識の産物であるならば、もうその時点で恣意性の問題は解決されている。自分が、より大きな集合無意識の端末であろうとするならば、そのような自分の手によって生み出される作品は恣意性の産物とは言われない。

 

ところが、本来的に無意識を原料として構築された意識を「自分の意識」と見做してそれ以上の集合無意識の流入を遮断してしまうのであれば、その人は必然性を失ってしまうのである。

 

私もそうだったが、多くの人は「才能」を必然の問題として捉えている。才能のある人間はある種の必然性を有しており、才能がない凡人は偶然性に流される。

 

しかし必然性を手に入れるのは持って生まれた才能によってではなく、自分がどれだけ大規模な集合無意識の端末になれるかであり、それは経験と学習によって獲得できるのである。

 

ところが必然性を手に入れるのは持って生まれた才能によってではなく、自分がどれだけ大規模な集合無意識の端末になれるかであり、それは経験と学習によって獲得できるのである。

 

それは私にとっての詩の問題でもあったのだ。詩というものは、芸術として詩が原初的であるにもかかわらず、私には詩が理解できないのであった。それは詩を必然とは捉えられずに、恣意性としか理解できなかったのである。

 

その理由は、つまりその必然性は詩の中にではなく、自分の中に詩を理解するだけの必然性が存在していない、そのことの表れに過ぎなかったのである。