アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

シニフィアンと人工物

私は「私の中のサヨク」を除去するというより転化しなければならない。除去よりも転化の方が資源の無駄にならないからである。何をどう転化するのか?

サヨク思想は「自然」を偏重して賛美し、私もそれに絡め取られたのだったが、これを「無意識」へと転化するのである。思えば「非人称芸術」とは「自然」と「無意識」の奇妙なハイブリッドであったが、これをあらためて「無意識」の問題へと転化する必要がある。

「世界」を哲学的に転覆させなければ哲学の意味はない。すなわち私はサヨク的なものの見方、感じ方、判断の仕方を根底のところから転覆できないでいる。心の奥底に沈殿したものは重く、安定しきっている。

まず我々は、アート作品を含むあらゆる人工物をあまりにも自明的に捉え過ぎている。人工物とは何か?それはもちろん人類が登場する以前には存在しなかった。では人工物はどのように発生したのか?

確認可能な最古の人工物が石器だとすると、330年前の猿人が作った石器が最古だという研究がある。この記事のキャプションに「人類の祖先によって意図的に粉砕された形跡がはっきりと見られる 」とある。

natgeo.nikkeibp.co.jp

つまりその石器を作ろうとする「意図」そのものが、すなわち石器そのものなのである。

また同記事には、260万年前のオルドワン石器について多くの研究者が「人類の祖先が初めて作った石器にしては、あまりにも注意深く作られていると考えていた。」とある。つまりその「あまりにも注意深く」というその意図そのものが、オルドワン石器そのものなのである。

石器の例で分かる通り、あらゆる人工物は「もの」ではなく「意図」そのものである。人間とはキルケゴールが言う如く肉体ではなく精神であるならば、人工物も同じく「もの」ではなく「精神」そのものなのである。

精神とは何か?これもキルケゴールによると「関係への関係」であるからこれは「言語」である。言語とは何か?と言えば「個人言語」が有り得ないことから分かる通り、フロイト的な集合無意識と深く関係している。例えば住宅地には多くの家が建ち並んでいるが、この一軒一軒の家それぞれが精神の産物であり、つまり人間の精神そのものである。精神には「意図」も含まれるが、「意図しないもの」も含まれる。それこそが言語の作用であり、無意識の作用である。

言語の作用は必然的に無意識の作用を引き起こす。なぜなら言語には「個人言語」が存在し得ず、必然的に言語は「集合無意識」の作用を引き起こすからである。だからあらゆる精神としての人工物は一義的な「意図」ではなく、多義的な意味内容が隠されている。

つまりシニフィアンシニフィエで考えると、人は多くの場合、音声言語や文字言語をシニフィアンとしてよりもシニフィエとして認識するが、「もの」に対しては「それが何であるか?」というシニフィエは一義的な認識で済ませて、もっぱらシニフィアンの具体的存在感として認識する。

あらゆる人工物はシニフィアンシニフィエの二つの側面があるにもかかわらず、素朴な人はシニフィアンとしての面だけを詳細に捉え、シニフィエとしての多様な意味を「読もう」とはしない。

あらゆる人工物はそれを構成する様々な「言語」に分解できる。しかしこの場合の言語は製作者の「意図」のみならず集合無意識としての言語を含んでおり、これらを「読む」ためにはフロイト的な精神分析や、レヴィ=ストロース的な構造分析と同様のテクニックが必要となる。

この技術に対して私が大きな障害を負っているのが他ならぬ「非人称芸術」の概念であり、これが未だに根底のところで覆らないままでいる。つまり私は芸術への誤解をどうしても払拭し切れず、過去の成功体験に囚われ続けている。

 

これは私だけの問題ではなく、多くの人は芸術を誤解しているのであり、芸術の問題とは誤解の問題である。かつての私は「誤解による創造性」を説いたのであるが、一面はある意味では正しく、もう一面は全面的に間違っている。

 

「誤解による創造」のある意味での正しさとは、一義的な人の意図を超えた無意識を「読む」という点が、その人の意図からすれば誤解として捉えられる、という意味において正しい。

 

しかし一方で全面的に間違っているのは、芸術における「誤解による創造」はごく一般的なありふれた間違いの仕方に過ぎないのである。戦後日本のサヨク的なアートにおいては、皆好き勝手に芸術を誤解しながら自分のオリジナリティを追求し、その実類型に陥っている。

 

無知による誤解は類型しか生み出さず、真のオリジナリティは知的な変換操作によって生じる。

 

人間とは精神である。精神とは精神活動であり、精神活動とは表現である。たとえ誰かに伝えようとしなくとも、人が何かを考えるときは心の中で言語が表現されるし、悲しみにしろ喜びにしろ驚きにしろ、何かを感じるときは自分の中で感情が表現される。7

ということで見れば、あらゆる人工物は表現であり、人間の精神活動そのものなのである。人はどのような精神活動を行なっているのか?それはあらゆる人工物として表現されている。

 

人工物を作るとは素材を加工することである。私は経験があるのだが、素材を上手く加工するには素材と対話する必要がある。素材とはシニフィアンであり、だからシニフィエ=意味内容を含み、それを「読んで」さらに言葉を練り上げることで人工物として表現される。

 

フォトモのワークショップを行うと初心者がカッターナイフの使い方を知らないことが分かりそれを説明しようとするのだが、私はカッターナイフの使い方を無自覚のうちに身体的にマスターしており、それを改めて言語化して人に説明する必要性を感じたのであるが、これは実に「非言語」の例ではない。

 

以前にも書いたが、人間の身体そのものは「もの」であって、つまり固有のシニフィアンであるから、必然的に固有の意味内容を含む「言語」なのである。言語とは人が話す言語だけではなく、人間をはじめとする各生物に固有の身体そのものが「言語」なのである。

 

非言語とは「人間が使う音声言語や文字言語とは異なる言語」なのであり決して「言語でないもの」を指すのではない。むしろ「人間が使う音声言語や文字言語」がなぜ発生し得たのか?その理由は「人間が使う音声言語や文字言語とは異なる言語」が先立って存在したことにある。

そう考えると、すべての存在はすなわち言語であり、言語でないものは存在しないことになる。

 

「もの」は存在しない。シニフィアンだけが存在する。すなわち人間の言語に先立ってシニフィアンは存在し、シニフィエも存在する。だから人間は「素材」としての石を加工して石器を作り、「素材」としての木を加工して椅子やテーブルや船を作ることができるのである。

 

素材とは何か?石や木や鉄などの素材がシニフィアンでありシニフィエを伴うからこそ、それらを加工して人工物を作ることができるのである。