アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

対話と好奇心

私よりさきに生をうけた人々があらゆる有益で必須な主題を自分のものとしてとってしまったから、私は非常に有益な、または面白い題材を選ぶことができないのを知っている。#ダ・ヴィンチ

 

 

それで私は、ちょうど貧乏のため一番あとから市場に到着したが、他に品物をととのえることもできないので、すでに他人の冷やかし済みだがあまり値打ちがないために取上げられず断わられた品物すべてを買いとる男のようにふるまうであろう。#ダ・ヴィンチ

 

 

私はさげすまれ斷わられたこの商品、数多の買手の残りもの、を自分のはかない荷物のうえにのせよう。そしてそれを大都會ではなく、貧しい村々に配り、かつ自分の提供するもの相應のお禮をもらいながらあるこう。#ダ・ヴィンチ

 

優れた人ほど謙虚なのに驚くが、それだけ世界を広く捉えているのである。逆に、自分は何でも知っているという安心を得ようとするならば、世界をなるべく狭く捉えればいい。村一番の力持ちも、村から出なければ世界最強の男になれる。

 

誰もが常識を識っているのであり、常識の範囲に閉じこもるならば誰もが「もの識り」になれる。

世のわれらに関する誤解を解かんと努むるなかれ。彼らはわれらを誤解せんと欲す。故にこれを解くは彼らの意志に反するり。われらはわれらの善を思うわれらの友人に対して誤解を解くべきなり。彼らはわれらを正解せんと欲す。ゆえに彼らはわれらの弁解を聞いて喜んでこれを受くるなり。 #内村鑑三

 

 

ピラトと祭祀の長の前におけるキリストの沈黙は敵人の前における弁解の不要と無効とを我らに教え給わんがためならざるべからす。#内村鑑三

 

「敵」とは対話を拒否する者であり、自分の話はしても他人の話など聞きたくないのだから、そのような敵と対話しようと思うのなら、その人の希望通り黙って話を聞いてあげることである。

 

対話とは好奇心であり、たとえ相手が自分に対し興味を一切持っていなかったとしても、自分がその相手に好奇心を働かせるのであれば、対話は十分に成立する。