アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

言語論と聖書

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。『ヨハネ福音書 』冒頭

 

教科書的には、20世紀哲学において「言語論的転回」というものがあったとされるが、実に新約聖書の「ヨハネによる福音書」冒頭に、「全てが言葉である」と既に書かれている。

 

全ては言葉であり、言葉は神であり、言葉によって出来ていないものは存在しないと、聖書には記されている。そして西洋哲学は20世紀になってようやくこの認識に立ち返ることができたのだと言えるかもしれない。

 

全ては言葉である、とすると、例えば文字で書かれた「詩」だけが詩であるとは限らないことになる。あるあは音声によって謳われた詩だけが詩なのではないはずである。全ては言葉なのだから、詩は音声や文字に限らずあらゆる「もの」もして存在し得る。

 

言語論的回転のwikiはこちらですが、私がみたところではフッサール現象学もこれに影響を与えているように思える。実際、竹田青嗣さんの『現象学入門』は現象学構造主義とが錯誤されたようなレトリックで書かれており、私はしばらく両者の区別が付かなたった

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/言語論的転回