アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ブッダによるデカルト批判

古代インドの最古の仏典『ブッダのことば(スッタニパータ)』(中村元訳/岩波文庫)を読んでいたら、下記の一節があって驚いたのですが、

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九一六 師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

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これは明らかにデカルトの「我思うゆえに我あり」の批判になっているのです。

デカルトが「我思うゆえに我あり」と記した『方法序説』が出版されたのが1637年で、ブッダの生没年が紀元前463年 - 紀元前383年(中村元説)ですから、ブッダデカルトより2000年も前に「我思うゆえに我あり」に気付いて、しかも「そんなのは〈迷わせる不当な思惟〉に過ぎない」と批判しているのです。

「我思うゆえに我あり」すなわち「我は考えて、ある」の何が不当なのか?はまず実際に『方法序説』を読めばわかります。

この本の後半でデカルトは、人体の血液が循環するメカニズムについて詳細に述べていますが、当時のヨーロッパではまだそれが解明されていなかったのです。

それでデカルトは「考え」を働かせて、「血液の循環は、心臓で高温加熱された血液の熱膨張による」と言う説を延々と披露します。

しかしこの理論は科学的に「間違い」なのは明らかで、つまりデカルトは人体をよく調べもせずに、自分が思ったこと、考えたことを「空想」で述べたに過ぎないのです。

このような「空想」は、いかに精緻に理論を組み立てても、現実に的中しない以上、虚しいものです。

しかし精緻な理論を組み立てられると、いかに事実から外れていたとしても、多くの人はつい騙されてしまうのです。

さて、ブッダは先の言葉に続いて

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九一七 内的にでも外的にでも、いかなることがらも知りぬけ。

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と述べていますが、つまり「考える」より先に「知る」ことが大事で、これは今の言葉で言えば「リテラシー」です。

つまり、情報化社会と言われる現代には様々な情報にあふれ、それらの情報をきちんと読めば様々なことを「知る」ことができ智慧が身につくのです。

最古の仏典『ブッダのことば』が日本語訳で読めるのも情報化社会のおかげで、何しろこの最重要経典は、江戸時代までの日本には輸入されて来なかったのです。

これに対し、情報をきちんと収集せず、あるいは情報を生半可に読んだ挙句に、自分の頭による考えを巡らせるのは、あらゆる間違いの元なのです。

仏教は一般的には宗教ですが、近代以前の宗教は哲学と未分化で、特にこの『ブッダのことば』は哲学書としても大変に優れていて、現代日本人にも当てはまるような普遍的問題を扱っているのです。

 

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