アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

マキャベッリ『政略論』抜き書き

○人はけっして自分の心の奥底をさらけだしてはならないのであって、ありとあらゆる手段に訴えても自分の目的をかなえるように努力しなければならない。従って一人の男から武器をとりあげようとする時でもその男に前もって「とりあげたその武器でお前を殺してやるぞ」などと言うべきでないのは勿論である。けれども諸君がいったん自分の手に武器をひきよせてしまったら、その後では思いのままのことをやってのければいいのである。#マキャヴェッリ


一つの国家にあってなにが最悪の罪かといえば、法律をつくっておきながら、それを守らないということの右に出るものはないと私は思う。また法律をつくった当事者が、その法律を守ろうとしないのは最低だと考える。#マキャヴェッリ 政略論

人間はつぎからつぎへと野望を追求してやまないものである、はじめはわが身を守ることに汲々とした者がやがて他人に攻撃を加えるにいたる。

サルスティウスがその著書のなかで、カエサルをして語らしめている以下のことばが的を射たものであることも、同時に理解できるようになる。「どんな悪い実例とされているものでも、それがはじめられたそもそものきっかけはりっぱなものだった」#マキャヴェッリ 政略論

人間は、大局を判断するばあいは誤りを犯しやすいが、個々の問題ではまちがうことはない。#マキャヴェッリ 政略論

指導者を欠く大衆はなんの役にもたたない、これら烏合の衆をいきなりおどしてみたところではじまらない、むしろ徐々にこちらの主張を通すようにすればよい。#マキャヴェッリ 政略論

子供と絵画教育

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/91Fid8TzYlL.jpg


『幼児の絵の見方』岡田清著1967年創元社刊、と言う古い本をたまたま読んだのだが、実に興味深い内容で、特に冒頭の主張は岡本太郎『今日の芸術』にそっくりなのである。

https://www.amazon.co.jp/dp/4422710028

https://pbs.twimg.com/media/DE4dd7FVYAA7krI.jpg

https://pbs.twimg.com/media/DE4dd7AUAAEpY_i.jpg

『子供の絵の見方』(1967)冒頭の「子供の絵」を「芸術」に置き換えると、岡本太郎『今日の芸術』(1954)に非常と非常によく似ている。年代がずれているようだが、小林清と言う人は1955年に『子供の絵の伸ばし方 』と言う本を創元社から出版ている。 

https://pbs.twimg.com/media/DE4gPQvUAAABs2S.jpg

上記の「幼児の絵は、将来画家になるためのものでもなく、手先を器用にするためのものでもなく」と言うのは驚きだが、我々は小学校の授業で「図工」があった事に何の疑問も持たなかったのだが、振り返ると何のためにそれがあったかはよく分からない。 

https://pbs.twimg.com/media/DE4hfvAUQAABvb2.jpg


子供に絵を描かせる事について、少なくともこの本に書かれたように「創造力をつけ、自発性な培い、美しさに眼を開かせ、そして豊かな心性をもった、心の働く子」になると言うことは、絶対にない。いや子供のうちはそうであっても、大人になると大半はそうでなくなるのは実際の日本人を見ればよく分かる。

子供に絵を描かせる、と言うことは私にとっては意味があり、それは私が大人になってからアーティストになったからで、しかしそれ以外の人にとって子供の頃に絵を描いたことが、大人になって何の役に立ったのかは非常に疑わしい。

そもそも子供への美術教育が可能になったのは、産業革命以降の近代になり、誰でも簡単に絵が描ける画材が販売されるようになったからで、それ以前の時代は、子供に絵を描かせる教育は行われなかったのだが、だからと言ってそのように育った大人に想像力や表現力や自発性が無かったとは考えられない。

大体において、子供時代にいくら自由に伸び伸び絵を描かせようとも、少なくとも現代日本においては、そのように育った子供が大人になって美術を愛し、美術作品を買ったりすると言うことは、ほぼ皆無なのである。その意味で日本の美術教育は、英語が話せない英語教育と同様に、何の役にも立っていない。

そもそも教育とは何か?と言えば、最近の私の認識としては「優れた人を認識し、尊敬できるようになる」ことであろうと思われる。白戸三平の漫画『忍者武芸帳』では修行を積んで強くなった人ほど他人の強さを見抜くが、修行をしない素人ほど己の力を過信して強い相手に斬り殺される。

私の教育のイメージとはそう言うもので、自分が学んで優れた人になればなるほど、自分より優れた他人がより認識でいるようになり、様々に優れた他人を尊敬できるようになる。

実に「他人を尊敬する」とは簡単なことではなく、自分自身がある程度優れていなければ、他人がどれだけ優れているかが認識できないのであり、その能力を身につけるのが本来的な「教育」の意味であるように思われる。

結局のところ戦後日本の美術教育は「純粋主義」と言うイデオロギーに依っていて、つまり子供が絵を描くにあたって概念や知識や情報などを余計なものとしてシャットダウンしてしまうので実際的には「教育」にならず、「画材」と言う工業製品を使って先生が子供たちと遊ぶ以上の意味はないのである。

https://pbs.twimg.com/media/DFBA5ECU0AApKwm.jpg


私もこのような絵を子供の頃に描いて先生に褒められなかった思い出がある。この著者の言うこと自体が、自身が批判する概念に囚われているし、その概念は今改めて見るとことごとく現実から遊離して間違っている。 

猜疑心と嫉妬心

マキャヴェッリによると、人間の元来の性質として猜疑心と嫉妬心が強い。故に例えば将軍が国のために命をかけて戦って勝利しても、その将軍に満足な褒美を与えないどころか追放してしまうような例が、歴史的に度々見られる。

王は国のために立派な働きをした将軍に対し、自分の地位を脅かすのではないかと言う猜疑心を抱き、またその優れた能力に嫉妬心を抱き、恩を仇で返すような行いをする。これは人間の元来の性質によるものだから、ある方法によっでしか防ぎようがない、とマキャヴェッリは指摘する。

その方法とは、王国であれば国王自らが戦地に赴き戦闘の指揮を執り戦果を上げることである。王が自ら戦果を上げれば、他の誰かに猜疑心や嫉妬心を抱く必然も無くなるのである。また共和国の場合は、国民が皆で戦争に参加することで、そうすれば連帯意識が生じ、誰か特定の人間に嫉妬することも無くなる。

闘争とクリエイティビティ

闘争からクリエイティビティが生じる。闘争が大規模化することはクリエイティビティが大規模化する事と同意であり、それが近代だと言える。闘争を避けるためにはクリエイティビティを低下させるのが一つの方法であり、それが現代日本の写真を含むアートの状況だと言える。

マキャヴェッリによると、人間の本性は非常に嫉妬深く猜疑心が強い。そこで、このことが原因で生じる争いを避けるための方法のいくつかをマキャヴェッリは述べているのだが、日本人には日本のやり方が古来より存在するのである。

結局のところ日本のアート界は、嫉妬による争いを防ぐため、クリエイティビティを低下させることによって成り立っているのではないだろうか?クリエイティビティを真剣に追求した者同士の争いの激しさに、穏やかな人々は耐えることができず、これを抑えるための巧妙なシステムが構築されているのではないだろうか?

技術的な争いは、これは技術の領域であるので嫉妬心は生じにくい。しかし芸術が精神の産物であるとして、精神の高さを争うことに対しては、嫉妬心が生じやすい。また天性の才能に対してよりも、努力で獲得した能力に対して嫉妬心が生じやすい。

精神の高さについて、これは人間の本質的な価値や優劣に関することであるから、嫉妬の対象になりやすい。しかし、持って生まれた才能の差は、自分ではどうしようもないことなので諦めがつきやすい。

努力で獲得した能力について、多くの人はまず「努力したくない」のであり、だからこそ「努力の人」に対し、努力しない人を責めているという猜疑心を持ち、なおかつ努力できることに嫉妬するのである。

だから日本のアート界においては努力して自らの能力を高めた人を評価せず、持って生まれた才能の持ち主を評価する。しかしアートにおける「持って生まれた才能」とは実質的にはファンタジーでありフィクションだと言っても差し支えない。

なので、現代日本のアート界は「才能」というファンタジーを創り出すことで、猜疑心や嫉妬心による争いを避けている。

争いを好む人と、争いを好まない人とでは、原理が異なっている。争いから創造性が生じ、創造性から争いが生じるのであり、闘争心が強い人は創造性が高く、創造性が高い人は闘争心が強い。

争いを憎む人は創造性を憎み、争いを恐れる人は創造性を恐れる。なぜなら一つには創造性の追求こそが争いの源であり、もう一つは争いは一部の「強者」によってなされるのであり、それが大多数の「弱者」を圧迫するからである。

「正しい答えは一つではなく二つ」だとすれば、争いは最も憎むべきものであり、徹底して排除しなければならない。そのためには闘争心の強い者たちを徹底して排除し、その能力を抑えつけなくてはならない。そして闘争心によらない才能のある無害な者を評価し持ち上げるべきなのである。

才能が無い人は努力して能力を勝ち取ろうとし、闘争心が強く危険である。これに対し才能のある人は自身の能力に満足し闘争心が無く安心である。また才能が無い故に努力せず楽に流れる人々も安全であり、むしろそのような人々の安全性のために、才能が無く闘争心に溢れた人を排除すべきなのである。

才能と努力は重要な対立軸であり、それと連動する感覚と知性も重要な対立軸である。実に持って生まれた才能による感覚的なアートは争いを産まず、努力による知的な組み立てとしてのアートは争いを産む。

アーティストとして存在するとは、人間関係としてそのアーティストが存在するのである。AというアーティストとBというアーティストが存在するとして、各自の性質が異なっているのはもちろん、各自を取り巻く人間関係が異なっているのであり、それがアーティストとしての質の違いを決定している。

アーティストの存在にとって、ある種の「弱さ」が強みになることがある。何故ならアーティストは人間関係として社会に存在し、そして人は平和のために弱い人と関係を取り結ぼうとする。争いを避けようとする人は、争いの元となる「強い」人とわざわざ関係を取り結ぼうとする事はないのである。

2008年と2017年

7月9日

@itozaki

うっちぃ@この世すべての強欲(志望)@YinfinitY

「構造主義」を誤解していた: 反省芸術・糸崎公朗blog3 app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/212
わかりやすかったのだが、そもそもこの解釈が合ってるのか僕には判定できないので、教えて哲学に自信ニキという感じ

Retweeted by 糸崎 公朗

 source

7月9日

@itozaki

糸崎 公朗@itozaki

@YinfinitY 反応が今頃になってすいません。9年も前の記事ですが読んでいただきありがとうございます。改めて自分の記事を読んでみて、自分でその内容に呆れましたが、この頃の記事は信用しない方が良いですwなぜならこの頃の私は入門書ばかりを読んで書いていて、つまりそれは噂話、ヨタ話のレベルに過ぎません

posted at 23:15:45

   

7月9日

@itozaki

糸崎 公朗@itozaki

@YinfinitY 昔の私は哲学や思想の入門書ばかり読んでましたが、入門書には「あの人はこんな事を言っている」「あの本にはこんな事が書いてある」と言う情報が分かりやすくまとめられているようでいで、それらは実質的には二次情報、三次情報の又聞き、噂話の類と変わらず、私はそれに加わっていたに過ぎないのです

posted at 23:21:19

   

7月9日

@itozaki

糸崎 公朗@itozaki

@YinfinitY その後私は方針を改め、プラトンもアリストテレスもフッサールも原著翻訳を読むようになって、そのような「一次情報」から自分の見解を述べるようになったのです。なぜそのような方針転換を行なったかといえば、以前の私は哲学の原著は難しくて自分には読めないと自ら決めつけ諦めていたからです。

posted at 23:28:28

   

7月9日

@itozaki

糸崎 公朗@itozaki

@YinfinitY しかし実際には、「読めない」と思い込んでいた哲学書の原著翻訳本は、自分でも読めたのです。一つには古代ギリシャや古代中国、古代インドの初期哲学は、意外に読むには難しくなく、それでいて本質を深く付いて為になるのです。

posted at 23:33:53

   

7月9日

@itozaki

糸崎 公朗@itozaki

@YinfinitY またフッサールやラカンは確かに難解ですが、分からないままに何年かかけて繰り返し読んでいると、徐々になんとなく分かってくるのです。なので入門書は一見理解への近道のようでいて、実際には永遠に目的地にたどり着けない道であり、私はそこから抜け出す事が出来て良かったと改めて思ってますw

posted at 23:38:55

    

 

エックハルトとヤージュナヴァルキア

https://pbs.twimg.com/media/DEEic5hUQAAGQ9V.jpg

https://pbs.twimg.com/media/DEEic5lV0AAD73f.jpg



昨日で終了の『切断芸術運動展』隣で開催されてた『エピクロスの空き地』展のチラシにどこかで読んだ言葉が引用されてると思ったらエックハルト『神の慰めの書』で、私はヴァンだ一成さんに借りて読み「離脱」の言葉に感銘を受けた筈が忘れていて、これを思い出させてくれた事に感謝しなければならない 。

エックハルト『神の慰めの書』が手元に無いのだが、検索すると「離脱」とはひとつには「被造物からの離脱」として確かに説かれていた事を思い出す。

theology.seesaa.net

 

「被造物からの離脱」に相当する教えはキリストやそれ以前の古代ギリシャ哲学や、古代中国の諸子百家でも説かれているが、私が思い出す範囲で最も見事なのは古代インドの仏教以前の哲学者、ヤージュナヴァルキア殿のエピソードである。

思い出しながら概要を書くと、ある時王様が多数のバラモンを集めて「この中で最も知恵のあるバラモンに金塊を角にくくりつけた牛100頭を褒美のして与えよう」と言った。

すると、バラモンの一人であるヤージュナヴァルキア殿が「それではこれは私がいただきます」と当然のような態度でそれを持ち帰ろうとしたところ、他のバラモン達から「あなたはなぜ自分が最も知恵があるバラモンだと言い得るのか?」と次々に問答を仕掛けられる。

これに対しヤージュナヴァルキア殿はことごとく論破して自身が真に卓越していることが証明されてしまう。

これで分かることは、「被造物からの離脱」とは被造物の拒否ではなく、被造物に「こだわらない」事であり、だからこそ莫大な財産をくれると言われればありがたく頂戴し、なおかつそれに執着しないでおられるなら、それこそが真に「被造物からの離脱」だと言えるのである。

「被造物からの離脱」とは金持ちが財産を捨てること(喜捨)では必ずしもなく、本質においては金持ちであろうが貧乏人であろうがその人のあるがままの状況において誰もが「被造物からの離脱」を行うことができる。これがブッダ以前に栄華を極めた古代インドのバラモンの教えなのではなかろうか。

国立西洋美術館でフォトモワークショップ

【告知】上野の国立西洋美術館にてワークショップを開催します。

C創作・体験プログラム
①「フォトモで楽しむ本館」
参加者が撮影した本館の写真を、講師の制作技法にならって立体に作り上げます。
*観覧券が必要です。
日時:7月22日(土)10:00~17:00
講師:糸崎公朗(美術家・写真家)
対象:一般(高校生以上)
定員:先着15名

申込は下記ページからしていただけますので、どうぞよろしくお願いいたします。
https://www.nmwa.go.jp/jp/events/fun-with-collection.html#fun2017_C