アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

短絡と認識

ネルソングッドマン『芸術の言語』によると、絵画は、つまりは写真は、対象物の再現ではなく、対象物への「指示」である。何も写ってない写真とはなんの指示もない写真であり、だからこそ「芸術」と誤解されるのである。

確かに人間がその肉眼で現実を見るときも、実は「現実そのもの」ではなく、指向性に従って指示された反射を見ている。というのも同じ現実を目の前にして、動物種によって「何が見えるのか」が違うし、それは同じ人間同士でも異なっているのだ。

人はなぜ「写真は現実の再現である」とか、「自分は現実そのものを見ている」などと誤解をするのか?それは、そのように言語的な「短絡」がなされているのであり、かつ実生活に支障がないからである。言語には実生活を円滑にするための「短絡」の機能がある。

あらゆる動物は、種に応じた短絡的認識機能を有している。しかし本能の大半が失われた人間は、この生存に必要な短絡的認識機能を、「言語」を使って自前でプログラムできる。従って言語には、本質的に短絡の機能が備わっている。

絵画における遠近法は、その絵画の「正確さ」の現れではなく、その絵画に投入された「知性」を表している。従って、機械的に遠近法が描写される写真において、遠近法そのものが「知性の現れ」と受け止められることはない。

 

イデオロギーとウィルス感染

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相変わらず冷戦のオベンキョーで見てましたが、だんだん分かってきたのは、イデオロギーとはウィルスのようなもので、人はウィルスに感染するように、集団的にイデオロギーに染まるのではないか?という事です。

これは福沢諭吉が述べていたのですが、西洋からもたらされた近代化というのは流行風邪のようなもので、無理に防ぐより一緒に感染してしまった方が良いのだと、この動きを肯定していたのです。

そして同時代の中国や朝鮮は、是が非でも感染を防ごうとして、近代化しそびれてしまうのです。

そしてこのイギリスの産業革命から始まる「近代化」のさらなる「近代化」が共産主義で、つまりさらなる新種のイデオロギー=ウィルスなわけです。

この新種のウィルスに対し、産業革命の発祥国であるイギリスと、イギリスの血を引くアングロサクソンの国アメリカは、なんとしてでも感染を拒否しようとします。

これに対し、近代化が遅れていたロシアには瞬く間に感染が広がり、同じく近代化が遅れていた中国や朝鮮にも波及したのです。

つまり西側諸国から見ると、共産主義国の人々はビョーキに感染していて、
その感染がこちらに来ないようになんとしてでも防ぎたい。

逆に共産主義国からすると自分たちこそが革命的治療を施した健康体で、不健康な体に後戻りすることは絶対に許されないと信じているわけです。

ムッソリーニをコピーしたヒトラー

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youtubeで冷戦の番組を見終わったら関連動画で出てきたのですが、20世紀の独裁者、ムッソリーニヒトラースターリン、の番組です。

これはテレビ画面をビデオカメラで撮った映像のようですが、これだとNHKからお目こぼしがあるのか…?

ともかくこれを見てわかるのは、ヒトラーの演説の仕方をはじめとする様々な手法は、ムッソリーニのコピーで、それをとことん推し進めたお陰で本家を凌駕してしまったのですね。

このように、本家をコピーしてそれをとことん推し進め、やがて本家を凌駕して取って代わる、という手法は誰かに似てる…と思ったら、われわれ日本人がそうだったんですね…というより、それが先日シェアした記事の「秀才」とあり方と言えるかもしれません。

そうなると、ファシズムを発明したムッソリーニは創造性を重んじる「天才」だと言えるかもしれません。

共感性・再現性・創造性

yuiga-k.hatenablog.com


Facebookで知った記事だが、これがスゴイのは「天才は創造性を目指し、秀才は再現性を目指し、凡人は共感性を目指す」と気質によってその目指すところの違いを明らかにした点で、その意味でこの三者に本質的な「優劣」は存在しない。

http://yuiga-k.hatenablog.com/entry/2018/02/23/113000

私自身はかねてからTwitterでも明らかにしてるように「天才論」には否定的であったが、この記事の天才の定義には納得せざるを得ない。そしてこの定義に従うならば、残念ながら私は「天才」ということになってしまう。

なぜなら私は何よりも「創造性」に価値を置いており、たとえ自分自信が十分に創造性を発揮できないとしても、他人の創造性は最大限に評価する。その一方で、多くの人が創造性そのものにあまり評価を見出さないことに、疑問と共にもどかしさを感じていたのである。

それもそのはずで、私が無前提に絶対の価値と信じていた「創造性」は相対的な価値しかないのであり、大多数の人々は「共感性」を、一部のエリートは「再現性」を、それぞれ絶対の評価軸としていたのだった。これは私の体験からも、実につじつまが合う。

私は実は中学時代に「田中くん」という天才的な同級生がいたおかげで、自分が「天才ではない」ことをひしひしと感じており、同時に天才である田中くんに猛烈な嫉妬と劣等感を抱いていたのである。

その感覚は美大入学後も続いており、大学の同級生や先輩や後輩にはさまざまな才能の「天才」がいて、一方で天才的才能に恵まれない自分を卑下していたのだった。

このような自分の「天才コンプレックス」が解消されたのは、美大を卒業して程なくして赤瀬川原平さんの『超芸術トマソン』に出会ってからで、これによって私は「自分の才能で勝負しない」という方法論を知るのである。

そしてこのトマソンを探して街歩きする過程で「フォトモ」の技法が見出される。そしてフォトモ制作を続ける過程で私は図らずも「努力」を通じて自らの能力高める、という経験をすることになった。

実は私はそれまでかなり素朴な「才能論」に囚われていて、つまり天才的才能は持って生まれて人に備わったもので、それは凡人の努力で埋め合わせることができないから「天才」としての価値がある、と認識していたのである。

それは実に「田中くん」がそのような気質であって、彼は特別の教育を受けていないにもかかわらず、中学生の頃から並外れたデッサン力を有して、何も見ないで特撮やアニメのキャラやメカを「写実的」にスラスラと描いて見せていたのである。

田中くんは絵の才能だけでなく、当時から難解な哲学書を読みこなし、独自の思想である「大衆論」を構築し、後に同名の書物を自費出版している。そして彼の主張こそは人間は持って生まれた才能によって「大衆」と「非大衆」に分かれ、その差は努力で埋め合わせできない、と言うものだったのである。

私にとって田中くんの『大衆論』は難解な書物で全て読みこなすことはできなかったが、それだけに「天才ではない」自分に対して「努力で埋め合わせできない」ことの絶望をひしひしと感じていたのだった。

そのような「才能論」を採用した私は必然的に「努力」に価値を見出すことができず、つまり一切の努力をしないままただ自分の才能の無さを嘆いていたのだった。いや実は努力してデッサンを学ばなければ美大に入れないのでそのための努力はしたのだが、結局は才能が足りずに芸大に入れず絶望していた

ところが私は「超芸術トマソン」に出会って、これは個人の才能を超えた概念であるがゆえに「ガス抜き」ができたのである。そしてその余裕のある精神から独自の技法である「フォトモ」が生まれ、その表現を発展させるために図らずも努力するハメになったのである。

私はフォトモによってようやく「創造性」を手に入れることが出来、コンペで賞もいただいて「美術家」を名乗れるようになったが、そうしてふと振り返ると、いつのまにか自分の中の「天才コンプレックス」はすっかり解消され、「才能論」も完全に無効になっていたのだった。

結局、田中くんが主張していた「才能論」は間違いで、確かに彼は並はずれた才能の持ち主には違いなかったが、それは世阿弥が指摘した「時の花」で、努力してそれを伸ばさなければたちまち枯れて無能者になってしまう。

現に田中くんは、頭が良すぎで学校の勉強がバカらしくて真面目に出来ず、中学卒業後は底辺の定時制高校に行き、程なく中退して家で哲学書など読みながらブラブラしていたところ、当時は「引きこもり」という言葉が存在せず、判断に困った親が彼を精神病院に強制入院させてしまった。

実際に田中くんは精神病院で治療を受けるような状況ではなかったが、当時の彼自身の社会適応力はゼロに等しく、そのため精神病院から抜け出すことが出来ず、今以て行方不明になってしまった。

そのような田中くんは、本当の意味で「天才」と言えたのか?田中くん自身は行方知れずになってしまったが、幸い彼が20代後半に親に頼んで自費出版した『大衆論』は一冊手元にある。当時の私にとった難解だったこの本も、その後哲学書を読む「努力」をした現在の自分であれば、なるほどと理解できる

田中くんの著作『大衆論』を「天才=創造性」「秀才=再現性」「凡人=共感性」の観点で評価するとどうなのか?するとこの書物の骨格の一つははナチズムの「人種」と言う基準を「才能」に置き換えており、その意味で新規性がない。そもそも彼の目的は「創造性」にあるのではなかった。

田中くん目的は、社会不適格者の立場から社会への復讐であり、その願望が彼の思想を形成したのであった。それはオルテガが『大衆の反逆』でしてした「反〇〇」の態度に過ぎず普遍性がない。そもそも田中くんの『大衆論』ではオルテガについて一切触れられていないが、彼はこれを読んでいないのか?

田中くんの絵にしても、どれほど才能があろうともそれは「写実画」であり基本的に「再現性」以上の創造性を有していない。くだんの記事によると「凡人からは秀才こそが天才に見える」そうで、中学生の私には彼がそう見えたに過ぎなかった。

つまり冷静に振り返るならば、天才だと思って私が仰ぎ見ていた「田中くん」は天才ではなく、つまり創造性を追求するタイプの人間ではなく、極めて優れた秀才的側面を持ちながらも、一方では社会に適応できない凡人の側面を持っていたのであった。

人間と真実

ウィリアム・ジェイムズプラグマティズム』を読んでいるが、「事実は移り変わる」という「事実」が存在する。すなわち、かつて私にとって「非人称芸術」と紛れもなく「事実」であったが、今やさまざまな状況証拠からそれが「事実ではない」と認められるようになった。

過去の「間違った事実」も「事実」には違いがなく、事実にはそのような性質がある。

ヒューマニズム=人本主義を誤解していたが、人本主義に基づくならば、真実は「人」によって作られる。すなわちくだらない人からはくだらない真実が、優れた人からは優れた真実が生じる。くだらない真実は実用性がなく、ともすれば人々に害を与える。優れた真実は実用的で、人々に大きな実りをもたらす。

例えば、変な宗教にハマっている人や、あからさまな詐欺師に引っかかっている人は、その人たちが信じている「真実」が彼らを不幸にするのである。つまり彼らが信じているのが「真実ではない」のが問題なのではなく、「人を不幸にするタイプの真実」なのが問題なのである。

人がどうして真実でないものを信じることができようか。そして問題は、その真実の中身であり、それは人により異なっている。これはデカルト『方法論序説』冒頭の「人は誰でも良心に従うが、良心の内容は人により異なっている」という指摘に通じるものがある。

歴史的に見れば何が「真実」なのか?というその内容は時代を経るに従い徐々に改良が加えられ進化し続けている。一方ではもともとの「真実」の意味が時代を経るごとに忘れ去られ、「真実」の内容がどんどん堕落して行く。

ヒトラーを生み出したワイマール憲法

https://www.y-history.net/appendix/wh1601-075_1.html

色々調べてたら、現在のドイツの「ボン基本法」とそれ以前の「ワイマール憲法」との違いを分かりやすく解説した記事があって、なかなか興味深いです。

1919年ドイツ共和国(ワイマール共和国)で制定されたワイマール憲法は、当時もっとも先進的な人権規定をもち、もっとも民主主義的な憲法だったはずが、ヒトラー率いるナチスの台頭を許し、1930年代初頭に消滅してしまいます。

その理由は、下記のサイトによると、ワイマール憲法は人間の「性善説」に基づいていたからで、そこにヒトラーは付け入ったのです。

さらにワイマール憲法はそれ以前のビスマルク憲法を引き継ぎ、国民の直接投票で選ばれた大統領に、かつての「皇帝」並みの権限を与え、だからこそヒトラー大統領はワイマール憲法そのものを無効にできたのです。

これに対し、戦後西ドイツで交付された「ボン基本法」はそれ以前の反省から人間の「性悪説」に基づいており、それによって大統領が暴君にならないようなさまざまなセーフティー機能が備わっている。

それはアメリカも同じで、だからトランプ大統領は間違ってもヒトラーにはなれず、そのはご本人もよく承知のはずなのです。

ついでに言えば、扇動者としてのヒトラーは陰湿で暗く、そのような国民の中に潜む「陰湿な感情」を煽り立てて政権を握ったと見ることができます。

対してトランプ大統領は過激ではあるけれど根がポジティブで明るく、そのように国民の感情を煽り立てている。

大統領が明るくければ、国民も明るくなるのは道理だと言えます。

芸術とゲーム

ゲームには、ゲームの内部と外部が存在する。人はなぜゲームを設定するか?と言えば、人はゲームの内部で「最強」になれるからである。あるいはゲームの内部において誰が「最強」なのかを決定することができる。

ゲームには、「新しいゲームを作る」というメタゲームが存在する。そして私の「フォトモ」とはそのようなメタゲームに則っているのだが、メタゲームもまたゲームの一種には違いないのである。

結局のところ私は「ゲーム」で勝ち抜くことをあきらめて、それで「新しいゲームを作り出す」というメタゲームというゲームをプレイすることにして、その結果に「フォトモ」が生じたのであった。

そして私の「反-反写真」と言うのは、自分自身があらためて「モノクロスナップ写真」という既存の「ゲーム」に参加するという表明だったのである。とするならば、「ゲーム」のルールに則った上で何らかの「方法」「手段」を考えて「最強」を目指さな毛ばならないことになる。

しかし考えてみれば、あらゆるゲームは階層状のメタ構造の中に配置されている。例えば「モノクロスナップ写真」のゲームの上位には「写真」のゲームが、さらにその上の階層に「芸術」というゲームの階層がある。

だから「モノクロスナップ写真」というゲームのゴールは、結局のところ「芸術」のゲームに則り「芸術」を成立させることにある。しかし私の見たところでは「モノクロスナップ写真」というローカルなゲームを絶対視し、その最上位のゲームである「芸術」がすっかり見失われることがままある。

「芸術」というゲームは、どんな手段であれ最終的に「芸術」が成立すれば良いというルールに則ってプレイされる。つまりその手段は「モノクロスナップ写真」であっても、あるいは「新しいゲームの創出」であっても構わない事になる。

 

つまり「芸術」というゲームは、それ単独では成り立たないのではないか?「芸術」という抽象的なゲームは成り立たず、「モノクロスナップ写真」とか「フォトモ」とか「油絵」とか「音楽」とか「詩」などと具体性を伴わなければならない。つまりゲームは常に二重化、あるいは多重化している。

「芸術」というゲームを成立させるには、「モノクロスナップ写真」であるとか「フォトモ」であるとか「油」とか「音楽」とか「詩」など、何らかのもう一つのゲームのルールに縛られなければならない。

そのようなわけで、「モノクロスナップ写真」というゲームのルールにガチガチに縛られることによって、「芸術」というゲームをプレイする方法があり、それに私は「反-反写真」という婉曲的な名称を与えたのだった。

 

そこまで考えて、ではいかにして「モノクロスナップ写真」というゲームで勝ち抜いて「芸術」を成立させるのか?その具体的な方法論が問題となる。