アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

哲学・科学・宗教

安心と既成

私自身、安心への志向性が強かったのは、まずは明瞭に自分は劣っているという意識があったのだが、それは明瞭に学校の成績によってそのように明瞭にランク付けされたからである。いやそれで安心を得る道はただ一つで、勉強すればいいだけの話だが、私にはど…

権威と自然

権威の否定には二重の意味がある。一つは実質的が無いにもかかわらず権威だけがある状態に対する否定。もう一つは権威そのものの否定である。ところが、権威を否定しようとする側の者も「自分にこそ権威がある」と主張するのであり、誰も権威そのものを否定…

認識と志向性

私の場合は「階級闘争」などという言葉は一応聞いたことがある程度で、それが具体的に何を意味するのかは知らないし、自分には全く関係のない古い時代の概念だと思っていたのだが、いま改めてマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読むと、私自身の思考の…

幽霊と共産主義

ヨーロッパに幽霊が出る__共産主義という幽霊である。と言うのはマルクス『共産党宣言』の書き出しだが、反省すると結局のところ私自身も共産主義の亡霊に取り憑かれていたに過ぎなかった。 私が物心ついた頃は、全共闘運動などの日本の左翼運動は終わって…

純粋と総合

極端の対義語は総合でもある。極端な人は総合力を欠いている。中庸は総合の類義語でもあって、中庸でいるためには総合力を必要とする。極端はまた純粋の類義語でもあり、純粋は総合の対義語でもある。

現代人と野生の思考

「生活者」として必要な事は、ブリコラージュの素材となる引き出しをいかに多く持つか、という事だが、現代人の多くが実にこの引き出しの数が少ない。対してレヴィ=ストロースが報告する未開人は引き出しの数が多くサバイバル能力が高い。現代人は「野生の思…

考えと記号

考えが前に進まないときは、考えそのものがブリコラージュに陥っていて、考えの対象が記号化しそれ以上分解不可能になっている。例えば「芸術が分からない」といった場合の「芸術」や、金儲けの仕方が分からないと言う場合の「金儲け」がそれに当たる。 エン…

専門家と素人

最近、集中的に反省したおかげで、だいぶ分かってきたのだが、私には美術家として気負いがあったせいで、美術に対しかえって「不透明」な態度で接していたのだった。 これに対し後から学ぶようになった哲学に、私は何の気負いもなく、つまり「自分の哲学を打…

意味と間違い

私の間違いは、非人称芸術を語ろうとして、芸術を語ろうとしなかった点にあった。芸術を語るとは、芸術を総合的に捉えて語ることである。このため非人称芸術も芸術の枝葉の袋小路の一つとして語る必要がある。なぜなら芸術には同様の行き止まりの枝葉が、事…

一般と特別

自分が「特別な自分」であるならば、時代や地域などの状況に関係なく自分は「自分」として存在する。しかし自分が「一般的な自分」であることを自覚するならば、「自分とは何か」を知るために自分が属する時代や地域の状況を知ることは、極めて有効となる。 …

環境と知性

『野生の思考』を再読しようと思って、まずは最後のサルトル批判の『歴史と弁証法』から読んだのだが、フッサールやラカンに比べたら簡単かと思ったら、思ったより難しくて手強い(笑)しかし私は時代的にこの影響を大きく受けているはずなので、その確認の…

敗戦と日本人

極端と中庸。岡本太郎の芸術論も、赤瀬川源平の超芸術トマソンも、私の非人称芸術も「極端」であり、特定の時代と地域に根ざして偏向しており、普遍性がない。これに対して中庸とは特定の時代や地域を越えた普遍性であり、一般性である。 そこで岡本太郎の芸…

学問と一般化

反省とは何かと言えば、一つには自己を「一般化」して捉える事である。人間の自然な感情においては、自己は多くの他者たちと違う特別な何かのように実感されるが、自己をそのような例外としてではなく、多くの他者たちと立ち並ぶように一般化して捉えようと…

デカルトとアリストテレス

適切な呼称かどうか不明だが「幕の内弁当理論」と言えるようなものがあって、例えばデカルト『方法序説』後半にあった、心臓の仕組みについての論文がそれに当たる。 デカルトはその当時科学的に解明されていなかった人体の血液循環の仕組みについて「熱膨張…

曖昧とステイトメント

写真家を含むアーティストで、ステイトメントが書けなくて悩んでる人は、結局やろうとしていることが曖昧で不明確なのが原因なのかも知れません。もちろんアートの場合、言葉に表した通りの作品を作っても、それもつまらないものになりますが、だからと言っ…

哲学と不可能視

ヴァンだ一成さんに「ヘヤーインディアン」の存在を教えてもらいましたが、検索すると下記のブログがありました。 ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」-感謝の心を育むには 驚くべき事に、ヘアーインディアンの言語には「教える」「教わる」という言…

子供と絵画教育

『幼児の絵の見方』岡田清著1967年創元社刊、と言う古い本をたまたま読んだのだが、実に興味深い内容で、特に冒頭の主張は岡本太郎『今日の芸術』にそっくりなのである。 https://www.amazon.co.jp/dp/4422710028 『子供の絵の見方』(1967)冒頭の「子供の絵…

猜疑心と嫉妬心

マキャヴェッリによると、人間の元来の性質として猜疑心と嫉妬心が強い。故に例えば将軍が国のために命をかけて戦って勝利しても、その将軍に満足な褒美を与えないどころか追放してしまうような例が、歴史的に度々見られる。 王は国のために立派な働きをした…

闘争とクリエイティビティ

闘争からクリエイティビティが生じる。闘争が大規模化することはクリエイティビティが大規模化する事と同意であり、それが近代だと言える。闘争を避けるためにはクリエイティビティを低下させるのが一つの方法であり、それが現代日本の写真を含むアートの状…

2008年と2017年

7月9日 うっちぃ@この世すべての強欲(志望)@YinfinitY 「構造主義」を誤解していた: 反省芸術・糸崎公朗blog3 http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/212835/204678/14773379…わかりやすかったのだが、そもそもこの解釈が合ってるのか僕には判定できないので…

エックハルトとヤージュナヴァルキア

昨日で終了の『切断芸術運動展』隣で開催されてた『エピクロスの空き地』展のチラシにどこかで読んだ言葉が引用されてると思ったらエックハルト『神の慰めの書』で、私はヴァンだ一成さんに借りて読み「離脱」の言葉に感銘を受けた筈が忘れていて、これを思…

物質と精神

物質主義は盲目をもたらすと、宗教家の手島郁郎先生は述べているが、芸術は物質であって物質でないという二つの側面を持つ。それは人が肉体という物質的側面と、非物質的な精神的側面の、二つを持つことと対応している。 肉体という物質があって、精神という…

人間と信用

お金の起源について知りたくなったのですが、これはなかなか良い記事ではないかと思います。https://hikakujoho.com/manekai/entry/20160809 hikakujoho.com お金の起源は「信用」にある。お金に対する信用とは、即ち人間に対する信用である。だから「人間は…

超人と芸術

近代とはイギリスの産業革命に端を発した科学の力によって、人間が人間を超える力を身につけ、人間が人間を越えようとする営みであり、それは芸術についても同じなのである。 産業革命はイギリスで起きたが、その後世界各地に波及し、写真の発明競争はフラン…

神と自明

神は存在しない。のであれば何が存在するか?と言えばあらゆるものが自明的に存在するのである。 「無宗教」を自称する多くの日本人は、神の存在を自明的に信じることが宗教だと思いなしているが、そのような人こそ自分を含むあらゆる事物の存在を自明的に捉…

他力と自明

他力は多力であり、自明とは反義語の関係にある。 全ての人工物は他力によってできている。しかし素朴な感覚において、あらゆるものは自明に存在する。多くの人は全てを自明とはみなさないまでも、世界のかなりの部分を自明的に捉えている。 この自明性を徹…

能力差の有りと無し

仏教の世界観は、人には絶対的な能力差があることを認め、それを輪廻の回数によって説明している。 人には絶対的な能力差が「ない」という側面と、人には絶対的な能力差が「ある」という側面の二面性がある。 ブッダの悩みは、人は修行をすれば誰もが悟りを…

朋と遠方

師曰く、学びて時に之を習ならう。またよろこばしからずや。朋あり、遠方より来きたる。また楽しからずや。人知しらずしていきどおらず、また君子ならずや。#論語 『論語』の冒頭「朋あり、遠方より来る」について、孔子は人里離れた僻地に住んでいて、たま…

他力と非人称芸術

そもそも私の「非人称芸術」のコンセプトは、自分自身のアーティストとしての「才能の無さ」という絶望から出てきたのである。私は自分の芸術作品を生み出す上で、「才能=自力」は全く頼りにならないことを悟り、それを「他力」によって実現しようとしたので…

自力と他力

全ての芸術は「非人称芸術」である。と言うのは私にとって大きな発見である。いや正確にはそうではなくて、一人称という言葉の定義が問題になる。「私とは何か?」とは哲学的な問題であり、素朴な認識による「自明な私」により「非人称芸術」の概念を構築し…