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第183回 芸術分析塾ラカン 2月9日(木) のお知らせ

彦坂尚嘉塾長の下記ブログ記事からの転載です。 18:00から私も写真の授業をします。 http://41jigen.blog12.fc2.com/blog-entry-1874.html ■課外授業 13:00〜●すみだ北斎美術館 鑑賞 昨年11月にオープンした「墨田北斎美術館」を観に行きます。建物の設計は…

人間と罪

自分がどれだけの偉業を成そうとも、自分が偉いわけではないのと同様、自分がどれだけの罪を犯そうとも、自分が悪いわけではない。 自分がどれだけの偉業を成そうとも、それが自分のおかげではないのと同様、自分がどれだけの罪を犯そうとも、それは自分のせ…

個人知と集合知

「レアリスム宣言」 ギュスターヴ・クールベ1855年 「私は古今の巨匠達を模倣しようともなぞろうとも思わない。「芸術のための芸術」を目指すつもりもない。私はただ、伝統を熟知した上で私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった。私が考…

写真家と美術家

自分の肩書きについてだが、これまで私は「写真家・美術家」を名乗ってきたのだが、これからは「写真家」にしようと思って、先日『CAPA』誌でインタビュー取材していただいた際も「写真家」の肩書きにしてもらったのである。 それは写真の歴史を学べばわかる…

現実と現象

人が永遠の「今」を生きるということは、未だ何もなし得ない「今」を生きることであり、何かを成し得ることの「決断」を迫られている。 絶えず変化する相対的な目的しか持たない日常生活にとっては、相対的な明証と真理で十分である。#フッサール デカルト的…

経験と先験的

素朴な客観主義から先験的主観主義へ! フッサールの言う先験的主観主義とは何か?先験的とは辞書的には「経験に先駆けて」と言う意味だが、経験とは何か? 例えば足裏に画鋲が刺さって「痛い!」と感じる事の経験を考えてみる。実は足裏に画鋲が刺さった瞬…

永遠の「今」

人間は永遠の「今」を生きるのであり、その意味で死ぬことは決してない。しかしその「今」の内に「人はやがて死んでしまう」という確定事項が、固有の未来予測として含まれている。 人は「今」というこの瞬間に閉じ込められているのであり、「今」というこの…

「今」について

自分は死なないと思っている者は時間を無駄にする。自分はやがて死ぬことは確実であり、しかしいつ死ぬかはわからない、と知っている者は時間を無駄にしない。しかしこの「時間」とは非常に不思議なものであり「時間の無駄」と言うのもどういう事なのかも非…

演繹法と帰納法

もし我々が、自由な、囚われない目で、キリスト教の教義や教会史を眺めることができるならば、我々は一般に流布している考え方とは相反するような多くの見解を表明せずにはおられなくなるであろう。 しかしながら我々は、この世に生まれてきた最初の日から、…

認識と自己省察

昨日は東京都写真美術館の『コレクション展』と『新進作家展』を観に行ったのだが、写真というのは基本的にどれも同じ「写真」であって、その良し悪しの判断は非常に難しい、と改めて思った。そもそも写真に限らずものの良し悪しの判断は非常に難しいにも関…

言語と言語でないもの

概念とは「分けること」であり、その分ける仕方があらゆる間違いの元になる。例えば「言語」と「言語でないもの」を分けることも概念であり、その間違った分け方に人々は囚われる。 「言語」と「言語でないもの」とを分けることは、後から生じたことであって…

物質と精神

作品とは精神の物質化ではなく、精神そのものである。そもそも精神とは非物質的なものではなく、物質であろうと非物質であろうとそれは「見掛け」の問題でしかなく、精神は精神でしかなく、作品は精神そのものなのである。 作品が失われると、精神が失われる…

神と認識

芸術とは何であって、どの作品が真の芸術で、との作品が偽の芸術なのか?それはまず全知全能の神が知っているのであり、人間が芸術を認識するとは、人間の認識を少しでも神の認識に近づけること、つまりは客観に主観を少しでも近づけることである。 全知全能…

完全な認識と類似物

観察と言うのは、自分と対象物との関係を測る事ではなく、対象物と対象物との関係を測る事である。例えば昆虫の観察をする場合、自分はチョウは好きだがガは嫌いだというふうに、自分と対象物との関係を測っても、それを自然観察とは言わない。 食べ物の観察…

明けましておめでとうございます!

明けましておめでとうございます! 今、ふと気づけば2017年の元旦という過去に戻っていて非常に驚いているのですが、今からなら後悔したことを何だってやり直し出来るし、何だって取り戻すことができるし、何でもまだ間に合います!これは実にすごいことです…

認識と喧伝

本来、認識は人間にとって非常に難しいのであるが、現代ではそれがあたかも簡単なことであるかのように、喧伝されている。岡本太郎『今日の芸術』も、芸術とは何か?何が芸術なのか?という認識は実に簡単であると喧伝しているのである。 現代人は「認識は簡…

まどわし神

花輪和一の漫画に『まどわし神』という作品に、人間の認識力を惑わせ、道に迷わせて食糧をかすめ取る、架空の寄生動物が登場するのだが、実際に多くの人が私を含めてこの「まどわし神」に取り憑かれている。 「芸術」を認識するのは本来は非常に難しいのであ…

言語と物

「言語」と「言語でないもの」が区別されないのであれば、「物」とは即ち「言語」であり、「物」は「言語」の特徴を備えていなければならない。 人間を含む生物の身体も「物」であるが、生物の身体は「言語」であると以前に直感したことがあったのだが、「言…

言語と区別

「自然な感覚」に於いて「言葉」と「物」は区別されるが、現象学的還元に於いて「言葉」と「物」は共に精神現象として区別されない。また、自然な感覚に於いて現実と空想は区別されるが、現象学的還元に於いては現実と空想は共に精神現象として区別されない…

認識と先行

言葉は認識の対象であり、つまり自分の存在に先んじて言葉は存在している。自分の存在に先んじて、既にあらゆる事物に名前が付けられている。 言葉は特定の事物と対応している。一つの事物には複数の種類の言葉が対応し、また事物の特定範囲は言葉の種類によ…

現実と思想

オルテガが述べるには、多くの人はそれぞれに思想を持っているが、それらの思想は何ら現実に的中していない。むしろ人々は現実から目を背けるため、自ら作った思想の中に逃げ込んでいる。けっきょく思想とは単純化であり、だからそれぞれに異なっているので…

自分が自分でいられる「これ」

私の問題はアイデンティティの問題だったのだが、私はアイデンティティにこだわり過ぎなのである。つまり自分は「これ」があるから自分でいることができる、という場合の「これ」は本来的には不要なのである。 そもそも、なぜ私がアイデンティティにこだわり…

大阪宝くじドリーム館『フォトモ作品展』のお知らせ

大阪での『フォトモ作品展』が始まってますが、広告代理店の方に会場写真を送っていただきました。大阪宝くじドリーム館(大阪市浪速区湊町1-4-1 OCATビル1階)にて、12月10日(土)までです。 http://ocat.co.jp/shop/%E5%AE%9D%E3%81%8F%E3%81%98%E3%83%89%E…

第181回芸術分析塾ラカン 12月08日(木)のおしらせ

第181回芸術分析塾ラカン 12月08日(木)のおしらせです。彦坂尚嘉塾長のブログ記事もご覧下さい。 彦坂尚嘉の《第41次元》アートブログ 第181回芸術分析塾ラカン ●クラーナハ展(国立西洋美術館)鑑賞13:00〜17:00 www.tbs.co.jp 上野の国立西洋美術館の…

自明と擦り合わせ

ウィキペディアの「自明」の項目を見ると「自明とは、証明や説明、解説をしなくても、それ自体ではっきりしていると判断されること。ただし、必ず正しいことが保証されるものではない。」とあります。 そして、まさに世間一般で「証明や説明、解説をしなくて…

第181回芸術分析塾ラカン 11月24日(木)のお知らせ

*彦坂尚嘉先生のブロク記事の転載です。私も講師として参加します。 http://41jigen.blog12.fc2.com/blog-entry-1868.html 予告が間際になって、申し訳ありません。24日は、改装なった東京都写真美術館と、MISA SHIN GALLERYでの篠田太郎の個展を鑑賞しま…

純粋と自由

小学校では、誰かが先生が帰ってしまったと言うと、子供達はわっと躍り上がって秩序を失ってしまう。子供の一人一人が先生がいると言う威圧感から逃れ、貴族という重荷を投げ捨て自由に振る舞い、自分が自分の主人になったのだと感じる喜びに浸るのである。 …

世論と支配

侵略と異なり、支配は権力の正常な行使であり、それは常に世論に支えられている。とオルテガは述べています。支配は世論が支持しているのであり、世論の支持なくして支配は行えないのです。我々日本国民も、日本国家によって自らが支配される事を支持してお…

猫は猫の専門家

自明性とは相続物です。自分が能動的に獲得したのではなく、受動的に与えられた豊かな相続物が自明性です。 「慢心しきったお坊ちゃんの時代」とオルテガが『大衆の反逆』に書いている通り、現代文明においては我々大衆を「目に見えない召使い」達が取り囲み…

文明と反自然

文明とは「力」であって、文明の力は自然の力と拮抗しています。文明の力が強い所では自然の力は抑制され、文明の力が弱い所で文明は自然の力に圧倒されます。文明の力が強い所とは一つにはアングロサクソンの地であり、これと比較して中国は文明の力が弱く…

文明と妄想

そもそも私のいうところの「非人称芸術」なるものは、果たして本当に存在しうるのか?実に「非人称芸術」の言葉に含まれる「芸術」とは、「自明の芸術」を意味していたのです。つまり自明性という緩い地盤に堅固な建築を建てようと試みる事は、愚かで無意味…

自由と好み

人は一般に自由を欲しますが、しかしあらためて考えてみると、われわれ大衆は、決して「無制限な自由」を欲しているわけではありません。プラトンは「自由人」と「奴隷」の区別を書き記していましたが、現代の大衆はもちろん奴隷ではなく、かといって完全な…

大衆と『野生の少年』

www.youtube.com フランソワ・トリフュオー監督『野生の少年』を観ましたが、大変な名画でした。実に、現代を生きる多くの人は「野生の少年」であって、自らの中に「野生の少年」を発見した者だけが、彼に対する「教育」を試みることができるのです。 実にこ…

オルテガの『大衆の反逆』

オルテガの『大衆の反逆』を再読しているが、「社会」とはそもそも「貴族的なもの」であり、「貴族」とは社会に対して能動的に関わろうとする人を指す。対して「大衆」とは社会に対して受動的に関わろうとするのであり、だから常に責任を回避しようとし、歴…

Googleとフォトモ

久しぶりGoogle earthを見たのだが、地方都市である青森市までフォトモのように3D化されていて、驚いてしまった。建物の一つ一つを、写真を元にした3Dに変換する技術はまさに「フォトモ」だが、これを独自のアルゴリズムによって自動的に行う点が、私のフォ…

非人称芸術と共産主義

坂口安吾『堕落論』『続堕落論』、短いエッセイなので青空文庫で読んでみたが、岡本太郎の芸術論とも、椹木野衣の「戦後リセット論」とも共通点があり、その両方のベースとなったと思わせるものがある。 『堕落論』とは一種の原理論で、その原理を人間の原始…

価値転倒には二種類ある

一口に「良いもの」と言ってもそれには「自分が良いと思うもの」と「世間一般に良いと言われているもの」と「普遍的に良いもの」の三種類がある。 そして私の価値観は、それが「非人称芸術」なのだが、本来は芸術ではないものの価値を転倒させて、芸術だとし…

カラス

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岡本太郎と岡本かの子

岡本かの子こそがスゴイのではないか?と言うことは岡本かの子の川端康成宛の手紙の字がスゴくて気付いたのだが、静岡市美で開催された川端康成のコレクション展で、数ある文豪たちの書簡のうち、かの子の書だけが際立って、燦然と輝いていた。このテンショ…

人間と小説

岡本太郎の父母の思い出を語ったエッセイを集めた『一平 かの子』を読んでますが、ふと気付いたのは、私は小説をほとんど読んでこなかったのだが、これが非常によろしくなかった。なぜなら岡本太郎の言うように「人は生まれながらにして“自分”である」筈が無…

作者とプロデューサー

「非人称芸術」という言葉を、自分独自の定義をカッコに入れて、その意味を考えないと、それは全く「片手落ち」になってしまう。そうやってあらためて考えると、作品にサインのある人称芸術と、非人称芸術と、その区別は本質的に曖昧であることに気づく。 作…

想像とイメージ

「経験した」とはその経験によって「自分が変わること」を意味している。たとえ何かを経験したとしても、それによって自分に何の変化ももたらさないのであれば、それを「経験した」とは言わない。そして人が歳をとると、新たな経験をしても自分が変化するこ…

他人と不幸

そういえば私は子供の頃から物凄い不幸を背負っていて、とことん不幸で救いようがない。しかしそれだけに、一見幸福そうにしていて自分でも幸福だと信じている他人の中に、自分とはまた異なる種類の不幸の極みを見てしまう。 人間は誰でもそれぞれのあり方で…

天才とサヨク

本格の芸術の使命は実に芸術の道は、入るほど深く、また、ますます難かしい。だが殉ずるところに刻々の発見がある「生」を学び、「人間」を開顕して、新しき「いのち」を創造するところに在る。斯るときに於てはじめて芸術は人類に必需で、自他共に恵沢を与…

抽象と具象

私の「フォトモ」は有り体に言えば「具象」であり、現実の模倣である。しかし現実を単に模倣することは、職人的ではあるが知的であるとは言えない。そこで私の「非人称芸術」は具象と抽象の垣根を越えようとしたのだが、しかし本当にそうなっていたのだろう…

芸術と知ったかぶり

自分が芸術を認識できないことを恐れる必要はなく、ただ芸術とはなんであるかの実データを蓄積すれば、それは自ずと理解できてくる。しかし多くの人は自分が知らないということを過度に恐れ、知ったかぶりをするのである。 芸術について知ったかぶりをするの…

芸術とキノコ

人はなぜ芸術を錯誤するのか?と言えば、まず「芸術」とはその人が理解する以前に、客観的に現象している。例えば「ネコ」と言うものは、その人が「ネコとはこう言うもの」と勝手に思い込む以前に、客観として現象している。人が認識するとは、客観的にすで…

デュシャンのフォトモ

世界で最初に「フォトモ」を作ったのは誰か?と言えば、私が確認した限りではマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887- 1968年)なのです。デュシャンは1941年より「トランクの中の箱」(La Boîte-en-valise)というマルチプル(量産芸術)を販売し始め…